亀吾郎法律事務所

法律は門外漢

ご挨拶

 

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 はじめまして.亀吾郎法律事務所はてなブログ支部にお越し下さりありがとうございます.投稿はWordpressを主としていますが、より多く見ていただくため、はてなブログにもアカウントを設けました.はてなブログの方は、主にWordpress記事の転載になります.ぜひhttps://officegoro.com/ものぞいてくださいね.

 このページを開いてくださったということはわずかでも関心を寄せてくださったのかと思います.大変嬉しく思います.私のことを簡単に申し上げると、私はほそぼそと精神科臨床をしております.ものを書くことが好きでブログをはじめました.妻とクサガメ2匹と文鳥1羽で亀吾郎法律事務所を運営しています.自宅ではもっぱら事務所の掃除夫として仕事をしています.日常を綴るほかに考えたことを自分の経験に落とし込んで論考を書いたりします.さらに興味が湧いた方は長いですが上記サイトに私の来歴がございます.

 いつでも気軽に立ち寄ってください.適当にコメントを残してくださるのも大歓迎です.連絡先もありますから、遠慮なくどうぞ.

黄昏ミッドシップ

晴れた夏の日の夕暮れになると、決まって雨が降る.遠くから雷雲が見えてあたりが急に暗くなる.こもった低音が鳴り響いて、陽光を覆い隠すと、薄暗い灰色の空からポタポタと雫がこぼれ落ちてきて、途端に止めどなくすべての空間を雨が隙間なく敷き詰めてしまう.細い稲光が少し現れて、いつ音が鳴るか、待ち構える.だれもが知っている夕立.日中の熱を溜め込んだアスファルトから湿気がムンムンと漏れ出して独特の臭いを感じる.早く帰りたいな.これから帰ろうと思っていたのに.傘がないな、困ったな.あそこに雷が落ちたんじゃないか、うちは大丈夫だろうか.止むまでちょっと待っておこうかしら、そんな考えが飛び交いそうな日が多くなった.

 私は職場へ少し忘れ物を取りに事務所の社用車で外出していたのだが、それを取って家に帰る途中だった.盆の半ばで幹線道路は少し空いていたあの日だった.遠くの空が危ない色を放っていて今にも降り出しそうな、いや、まだ大丈夫そうだろうと逡巡.すると、ボタッとフロントガラスに一滴、二滴.すぐに数え切れなくなって、ワイパーを動かす.それでも視界が確保しづらくてやや焦る.速度を落とす.未だに豪雨の時に車のワイパーの動く間隔を二番目にすべきか三番目にすべきか悩んでいる.ちょうど良さというのは難しいものだと思う.雨の日はいつも考え事が多くなる.それはいいことなのかもしれない.

 雨音はいつしか途切れない連続音となってザーッザーッと、それ以上に水が無秩序に跳ねる音を奏でる.後ろから聞こえるエンジンの音だけではなくて、タイヤが路面の水をかき分ける音.前の車が巻き上げる水しぶき.様々な情報が雨になると一気に押し寄せてくる.

 ボツボツと音がするのは屋根に伝わる雨音だ.私は番傘を差したことがないからわからないが、布製の屋根に音するのは番傘に響く雨だと風雅なことを言う人が自動車業界でいたそうだ.洋傘でも似た音をするだろうから私は一般的な傘、ということにしておくが、確かに傘を打つ水の雫は、こういう音をする.私は事務所の車を贔屓しているからかもしれないが、いい音だと思っている.ハードトップの屋根にはない音をする.少し前時代的というか、旧世代というのだろうか.そんな考えが思い浮かぶ.どうか誤解しないでいただきたいが、前時代的という言葉に悪意は毛頭ない.もともと車には屋根がなかったのだから.

 ソフトトップ、つまり布製の屋根の車はめっきり数がなくなっているのか、と思えば実はそこまでではない.自動車メーカーのサイトを見れば幌付きの車を売っているところはある.マツダはその好例だろうし、マツダ・ロードスターは路上でよく見かける.本田技研工業のホンダ・S660もよくよく見かける.かつて販売されていたS2000もホンダ・ビートも幌がついていたし、今もちょいちょい走っている.日産自動車Z34ロードスターも稀に認める.もしかすれば外国車の方が幌付きの車と聞いて思い浮かべる人は多いかもしれない.英国だとRoadster, Drophead Coupe, 独仏ではCabriolet. 米国ならConvertibleといった表現で形容されると思う.どれも私からすればワクワクする言葉である.もちろん、屋根の開放を可能にする用語はいくつもあるのは承知している.しかしそれの詳説は本旨から逸れるので割愛する.

 幌型の屋根しかり、可動式屋根の車はどうも気取った奴が乗る印象を持たれている気がする.私だけだろうか.「いや、別にそんなことは気にもかけていませんでした」とか、「あぁ、そうなんですねぇ」という方は多分車には興味があまりない方なのかもしれない.寛容な方とお見受けする.それはそれで別の物事に関心を持たれているに違いないので千差万別あってとてもいいと思う.

 鼻息荒げて、「そんなことは決してないのだ!!諸君、聞き給え」とか、「そうだそうだ、どいつもこいつもみんな気取った奴だ、けしからん!プロレタリアートの敵め!」と思う方はどうか落ち着いていただきたい.反対する人は、二輪車の意見も聞かねばなるまい.二輪車こそ人間が風を受ける乗り物だが、それはプロレタリアだけの乗り物ではないのはご承知だろう.決しては私は熱狂的なファンではないし、かといって反対派を徹底的に論駁するつもりはない.そんなことで記事を書くのではない.どちらかといえば、私は所有する側だから擁護する立場になるのだが、幌付きの車は色々なことを気づかせてくれるのだと述べたい.それに気取ってもいないし、たまには気取ってもよいのでは.

 屋根を空けると、もちろん風が入ってくる.熱い風.冷たい風.心地よい風もあれば、堆肥の芳しい風も運んでくる.煙の臭いがすれば、あぁあそこでなにかを燃しているのかなと思いを巡らせ、牛糞の臭いがするとここには一次産業の営みがあるのだなと気づく.「ここは臭いね」と苦笑いをして隣の乗員と語らう.草花の香りに気づくことはもちろんだ.「この辺はもう花が咲いたんだねぇ」周囲の情景により一層近づいていくことができる.車の名前に風を由来とするものが多いのは偶然ではないはず.アクセルペダルを踏めばクランクシャフトの回転が高まり、車の息遣いもわかる.タイヤが路面を掴む感触がグッとわかりやすくなる.SUVの流行る今ならば、雪道を屋根を開けて走る面白さがあるのだろう.マフラーから鳴る排気音は屋根がしまったときに聞こえるものより生き生きしている.電話越しに聞く恋人の声よりも実際に会って聞く声の方が嬉しいのと似ている.情報量ははるかに多くなる.周りの車の音も聞こえるから注意は一層しやすくなる.車は鋼鉄の工業製品だが、それに生命の躍動を見出すような情動を私は感じる.「車に恋い焦がれるつもりか、この変態め!」という辛辣な御仁もいるかもしれない.しかしだ.陶器の置物に心を奪われたり、画材を塗りたくった平面を、これは芸術だ!というのと原則は同じだと私は思っている.

 車の動きに心を寄せて、狙った角度に操舵しスロットルを緩める、また正中に戻して踏み込む.単純な一連の動作だが奥深く、実は難しくて楽しい.これはどんな車でも言えることなので野暮な表現だが、幌のついた車はいわゆる「スポーツ」性が高め、つまり運動性能が高い部類であったり、余計な装備を省いているものが多いから(賛否あるかもしれない)、心身一如を実感できる.雨が降っても、一部の車を除けば大抵、すぐに屋根はしまうことができる.だから走行中びしょ濡れなんてことはあまりないし、雨漏れはまったくないものだと思って良いのではないか.幌の手入れが大変じゃないかと気にする方もいるかもしれない.販売店で詳しい話を聞けるはずだ.特に難しいことはない.メーカーが大衆に面倒なことを課すわけなかろう、と私は思っている.実際に私は水で汚れを落として細かい汚れを個別に除くだけで、何もしていない.特別気を揉む必要はないだろう.他の車と同じように愛情をもって接すれればよいのだから.

 「幌なんて、無駄無駄.贅沢品じゃない、屋根があったって走るじゃないの.むしろ荷物が詰める場所はなくなるし、かえって不便でしかないでしょ!」よくご存知ですね.確かに収納力は劣るかもしれない.それは逃れられぬ業かもしれぬ.しかし弁護する立場でいえばほとんどのメーカーは積載力と幌の収納機構を両立させようと苦心してきた.そして美観を損ねることなく両立に成功した車は存在する.エンジン搭載位置を前後タイヤ軸の間かつ、座席後方にするMid-ship(ミッドシップ)であれば前方と後方に積載箇所を設けることができる.とはいっても通常のフロントエンジンのセダンやステーションワゴンにはかなわない.エンジンを前方に配置しつつ幌のある車も輸入車には特に多い.結局積載力は犠牲になってしまうが、それを上回る特異な官能は言葉に尽くせないと思う.きっと賛同してくださる方がいると思う.

 もしそれでも無駄だ、と思う方はまぁそれでもいいかもしれない.そういう方もいらして良いと思う.だが、無駄だという価値判断は結局のところ主観的なものであり、曖昧なものにすぎないと私は思う.無駄をどのように定義するかはその人次第であろう.だからあらゆる反論はこちらが公序良俗を犯さない限り、雲散霧消にして消え失せてしまうであろう.動物を飼っている人にとって彼らは愛する家族であるが、嫌いな人にとっては憎むべき対象かもしれぬ.写真が好きな人は撮影装置に愛着をもち、被写体にも思いを寄せる.現像した写真を額縁に入れて満悦するのは無駄だろうか.骨董品だって人によっては遺物でしかないが、それが考古学的に芸術的に価値があろうとなかろうと最終的に価値を決めるのはそれを愛するものだろう.

 したがって、私は幌付きの車でいいと思っている.北海道を一週間くらい旅したときの感想を記事にしたことがあるのでよければご覧になっていただければと思う.

 私は以上のことを考えながら帰路に就いた.雨の日は、こんなことばかり考えながら運転している.いつの間にか雨はやんで、私は家の前の玄関にいた.その日の夕飯は何だったろうか.唐揚げだったかな.

The Book of Tea: 茶の本 続きの続き

The earliest record of tea in European writing is said to be found in the statement of an Arabian traveller, that after the year 879 the main sources of revenue in Canton were the duties on salt and tea. Marco Polo records the deposition of a Chinese minister of finance in 1285 for his arbitrary augmentation of the tea-taxes. It was at the period of the great discoveries that the European people began to know more about the extreme Orient. At the end of the sixteenth century the Hollanders brought the news that a pleasant drink was in the East from the leaves of a bush. The travellers Giovanni Batista Ramusio (1559), L. Almeida (1576), Maffeno (1588), Tareira (1610), also mentioned tea. 1 In the last-named year ships of the Dutch East India Company brought the first tea into Europe. It was known in France in 1636, and reached Russia in 1638.2 England welcomed it in 1650 and spoke of it as “That excellent and by all physicians approved China drink, called by the Chineans Tcha, and by other nations Tay, alias Tee. 

 ヨーロッパの著作において茶の最も古い記録はアラビア人旅行者の著述とされ、879年以後には広東の主な財源は塩と茶に課せられる税であった.マルコ・ポーロは1285年に中国の財務大臣が茶税の独占的増税によって罷免されたという記録を残している.ヨーロッパの人々が極東についてより知ろうとし始めたのは大いなる発見の時であった.十六世紀の終わりにはオランダ人らが東洋には面白い飲み物が灌木の葉から採れるという知らせを持ち込んだ.旅行家のジョヴァンニ・バティスタ・ラムジオ(1559年)、L.アルメイダ(1576年)、マッフェノ(1588年)、タレイラ(1610年)らも言及した.オランダ東インド会社の船が初めて茶をヨーロッパに持ち込んだ.フランスでは1636年のこと、ロシアには1638年に持ち込まれた.英国は1650年に迎え入れ、「かの素晴らしき、医者も異口同音に良しとする中国の飲料、これを中国人はチャと呼び、他国ではテイ、またの名をテーと呼ぶ」と評した.

Like all the good things of the world, the propaganda of Tea met with opposition. Heretics like Henry Saville (1678) denounced drinking it as a filthy custom. Jonas Hanway (Essay on Tea, 1756) said that men seemed to lose their stature and comeliness, women their beauty through the use of tea. Its cost at the start (about fifteen or sixteen shillings a pound) forbade popular consumption, and made it “regalia for high treatments and entertainments, presents being made thereof to princes and grandees.” Yet in spite of such drawbacks tea-drinking spread with marvellous rapidity. The coffee-houses of London in the early half of the eighteenth century became, in fact, tea-houses, the resort of wits like Addison and Steele, who beguiled themselves over their “dish of tea.” The beverage soon became a necessary of life – a taxable matter. We are reminded in this connection what an important part it plays in modern history. Colonial America resigned herself to oppression until human endurance gave way before the heavy duties laid on Tea. American independence dates from the throwing of tea-chests into Boston harbour.

 世界のあらゆる名品と同じくして、茶の宣伝は抵抗にあった.ヘンリー・サヴィル(1678年)のような異端者は喫茶は汚らわしい慣習だと非難した.ジョナス・ハンウェイ(『茶論』、1756年)は茶の飲用は男の背丈を低くし気品を損ない、女の美しさを失うと述べている.当初の茶の価格は(1ポンドあたり15、16シリング)高価で大衆の消費は適わず、「上級の厚遇と享楽に対する御用品、王妃と王侯向けの贈品」とされた.しかしそうした欠点にも関わらず、茶の飲用は凄まじく普及した.十八世紀前半世紀のロンドンコーヒーハウスは、事実上の喫茶店となりアディソンやスティール、お茶で憂さ晴らしをする才人の拠り所となった.茶はすぐに課税に値するほどの生活必需となった.我々はこれに関連して、茶が現代の歴史に重要な役割を担うのだということを思い起こさせられる.植民地アメリカは英国の弾圧に甘んじていたが、茶に重税が課せられるや、人の忍耐がこれ以上耐えきれぬものとなった.アメリカの独立はボストン港に茶の箱が投げ込まれる日から始まったのである.

There is a subtle charm in the taste of tea which makes it irresistible and capable of idealisation. Western humourists were not slow to mingle the fragrance of their thought with its aroma. It has not the arrogance of wine, the self-consciousness of coffee, nor the simpering innocence of cocoa. Already in 1711, says the Spectator: “I would therefore in a particular manner recommend these may speculations to all well-regulated families that set apart an hour every morning for tea, bread and butter; and would earnestly advise them for their good to order this paper to be punctually served up and to be looked upon as a part of the tea-equipage.” Samuel Johnson draws his own portrait as “a hardened and shameless tea-drinker, who for twenty years diluted his meals with only the infusion of the fascinating plant; who with tea amused the evening, with tea solaced the midnight, and with tea welcomed the morning.”

 茶の味は仄かな魅力を漂わせ、人は茶に惹かれざるを得ない.またこれを理想とする.西洋の批評家らがその薫香と思索にまとう香気を融合させるのに時間はかからなかった.茶にワインのもつ傲慢さ、コーヒーの自意識ぶり、ココアの無邪気な薄笑いはない.1711年、スペクテイター紙は次のように述べる.「それゆえ毎朝一時間かけてお茶とバター付きパンの食事を召し上がるどの立派なご家庭にもこの考えを勧め、本紙を注文いただき茶の用品の一つとして定期的に備えていただくことを切に願うものである.」サミュエル・ジョンソンは自分の肖像にこう記している.「頑迷で恥知らずの茶飲みで、珍奇な草木を煎じたもので二十年もの間、食事を薄めてきたのだ.夕餉を楽しみ、夜中の癒やしに、朝の歓待に茶を備えてきたのだ.」

Charles Lamb, a professed devotee, sounded the true note of Teaism when he wrote that the greatest pleasure he knew was to do a good action by stealth, and to have found it out by accident. For Teaism is the art of concealing beauty that you may discover it, of suggesting what you dare not reveal. It is the noble secret of laughing at yourself, calmly yet thoroughly. All genuine humorists may in this sense be called tea-philosophers, – Thackeray, for instance, and, of course, Shakespeare. The poets of the Decadence(when was not the world in decadence?), in their protests against materialism, have, to a certain extent, also opened the way to Teaism. Perhaps nowadays it is our demure contemplation of the Imperfect that the West and the East can meet in mutual consolation.

 チャールズ・ラムは熱心な愛好家であったが、自分の知る最大の喜びとは密かに善行を為し、偶然それが現れるときだ、と記した彼の言葉に茶道の精髄を感ずる.つまり茶道とは美を見つけようとするべく美しさを隠す技芸であり、あえて明かみに出すものを仄めかす技である.茶道は厳かに、しかし徹底して自身を笑う高貴な秘技である.そうした意味で真に機知に富んだ人々は茶の解脱者と呼ばれるだろう.例えば、サッカレー、そしてもちろん、シェイクスピアである.唯物主義への抵抗において、退廃期の詩人ら(堕落しなかった世界がいつあっただろうか)が確かな範囲で、茶道にも道を拓いたのである.おそらく今日、「不完全性」を真摯に熟考することが西洋と東洋の互いの慰めになりうるのだ.

The Taoists relate that at the great beginning of the No-Beginning, Spirit and Matter met in mortal combat. At last the Yellow Emperor, the Sun of Heaven, triumphed over Shuhyung, the demon of darkness and earth. The Titan, in his death agony, struck his head against the solar vault and shivered the blue dome of jade into fragments. The stars lost their nests, the moon wandered aimlessly among the wild chasms of the night. In despair the Yellow Emperor sought far and wide for the repairer of the Heavens. He had not to search in vain. Out of the Eastern sea rose a queen, the divine Niuka, horncrowned and dragon-tailed, resplendent in her armour of fire. She welded the five-coloured rainbow in her magic cauldron and rebuilt the Chinese sky. But it is also told that Niuka forgot to fill two tiny cervices in the blue firmament. Thus began the dualism of love – two souls rolling through space and never at rest until they join together to complete the universe. Everyone has to build anew his sky of hope and peace.

 道教を信ずる人々は「無始」の大いなる始まりにおいて「霊」と「物」が死闘を繰り広げたのだという.そして日輪黄帝は闇と地上の鬼神である祝融に打ち勝った.その巨人は死苦に悶え、太陽の天蓋に頭を打ち、蒼穹を震わせ、翡翠の欠片となって散った.星々は拠り所をなくし、月は夜の荒涼たる裂け目の中で当てもなく彷徨うようになった.黄帝は必死に天上を直そうと隈無く探し求めた.それは徒労ではなかった.東方の海の彼方から角を頭に戴き、龍尾を持ち、煌めく炎の鎧を纏った聖なる女皇、女媧が生まれた.彼女は魔法の大釜で五色の虹を繋ぎ、中国の空を修復したのだ.しかし蒼穹に二つの小さな裂け目を埋めることを失念したと言われている.こうして愛の二元性が始まったという.二つの霊魂が空間を彷徨い二つが一緒になって宇宙が完成するまで休まることがないのだ.誰しもが各人の希望と平和を空に新たに描かねばならない.

The heaven of modern humanity is indeed shattered world in the Cyclopean struggle for wealth and power. The world is groping in the shadow of egotism and vulgarity. Knowledge is bought through a bad conscience, benevolence practised for the sake of utility. The East and West, like two dragons tossed in a sea of ferment, in vain strive to regain the jewel of life. We need a Niuka again to repair the grand devastations; we await the great Avater. Meanwhile, let us have a sip of tea. The afternoon glow is brightening the bamboos, the fountains are bubbling with delight, the soughing of the pines is heard in our kettles. Let us dream of evanescence, and linger in the beautiful foolishness of things.

 現代の人類にとっての天はなるほど、富と力をめぐる巨人キュプロクス的闘争の中で微塵に砕け散った世界である.世界は利己と野卑の闇の中を手探りで彷徨うのである.知識は悪意を通じてもたらされ、博愛は功利の為に行われる.東洋と西洋は、生命の輝きを再び得ようと無意味に足掻く、荒ぶる海で揺蕩う二頭の龍のようだ.我々は大いなる荒廃を修復するために再び女媧を必要としている.偉大なアヴァターの降臨を待っているのだ.さてその間に茶でも一服しようか.午後の日差しは竹林を照らし、泉は喜びに満ちて湧き出て、茶釜から松濤が聞こえてくる.儚い夢を見ようではないか、万物の美しく愚かなものの中で物思いに耽ろうではないか.

1. Paul Krannsel: Dissertations, Berlin, 1902.

2. Mercurius: Politics, 1656.

 これで第一章はおしまいですが、全部で七章ありますからまだまだ続きます.皆さんは英文と邦訳を照らして、天心が文章に込めた気概を感じることはできるでしょうか.拙訳ですが少しでも天心の才覚を感じ取っていただければ嬉しい限りです.松の木のざわめきを松籟と言うのは知りませんでした.日本語って痒いところに手が届くような信じられないくらいリーチの長さがありますよね.

The Book of Tea: 茶の本 続き

Why not amuse yourselves at our expense? Asia would returns the compliment. There would be further food for merriment if you were to know all that we have imagined and written about you. All the glamour of the perspective is there, all the unconscious homage of wonder, all the silent resentment of the new and undefined. You have been loaded with virtues too refined to be envied, and accused of crimes too picturesque to be condemned. Our writers in the past – the wise men who knew – informed us that you had bushy tails somewhere hidden in your garments, and often dined off a fricassée of newborn babes! Nay, we had something worse against you: we used to think you the most impracticable people on the earth, for you were said to preach what you never practised. 

 諸君は我々を肴にして内輪で楽しめばよろしい.アジアもお返しさせていただこう.我々があなた方について想像し記すところすべてを理解したのならば、さらに面白い話の種があるだろう.遠くにあるものが華やかに見え、不可思議なものに対して無意識のうちに敬意を抱き、新しさと不確かなものに対する静かなる怒りを抱くといったわけだ.あなた方は嫉妬されるほど洗練された美徳を背負い、咎められるほどに鮮烈な罪を告発されているのだ.我が国の過去の文人、我々の知る賢人達のことだが、彼らが言うところによれば、あなた方は衣服のどこかにもじゃもじゃのしっぽを隠し持っていて、赤ん坊の細切れ料理をしばし食するのだという.否、我々はあなた方に対してもっとひどいことを考えていた.あなた方はこの地上で最も使い物にならぬ人々である.というのはあなた方は有言不実行とされているからである.

Such misconceptions are fast vanishing amongst us. Commerce has forced the European tongues on many an Eastern port. Asiatic youths are flocking to Western colleges for the equipment of modern education. Our insight does not penetrate your culture deeply, but at least we are willing to learn. Some of my compatriots have adopted too much of your customs and too much of your etiquette, in the delusion that the acquisition of stiff collars and tall silk hats comprised the attainment of your civilisation. Pathetic and deplorable as such affectations are, they evince our willingness to approach the West on our knees. Unfortunately the Western attitude is unfavourable to the understanding of the East. The Christian missionary goes to impart, but not to receive. Your information is based on the meagre translations of our immense literature, if not on the unreliable anecdotes of passing travellers. It is rarely that the chivalrous pen of a Lafcadio Hearn or that of the author of “The Web of Indian Life” enlivens the Oriental darkness with the touch of our own sentiments.

 そういった誤った認識は我々の間で早くも消えつつある.いくつもの東洋の港では商売のために西洋の言葉が用いられてくるようになった.アジアの若者は現代教育を身につけるべく西洋の学校に集っている.我々の眼差しはあなた方の文化を深く徹するものではないが、少なくとも我々は喜んで理解しようと思っている.堅い襟を正し、シルクハットを身につけることがあなた方のいう文明化だという迷妄を抱いている、我らの中にはあなた方の慣習や作法にあまりにも適合し過ぎてしまったものもいるのだ.そうした親しみは哀れみ悲しむべきではあるが、彼らが跪いて西洋に近づこうとする、我々の意欲の現れでもある.残念なことに西洋の態度というのは東洋の理解には不都合なものである.キリスト教の伝道師は説教はするくせに教えは請わない.あなたたちの情報というのは行きすがりの旅行者の信用ならない笑い話でなければ、我々の膨大な文学のごくわずかな翻訳である.ラフカディオ・ハーンが勇猛なる筆先を振るうことや、あるいは「インド生活の数々」の著者が自らの手で東洋世界の闇を照らすことは珍しい例である.

Perhaps I betray my own ignorance of Tea Cult by being so outspoken. Its very spirit of politeness exacts that you say what you are expected to say, and no more. But I am not to be a polite Teaist. So much harm has been done already by the mutual misunderstanding of the New World and the Old, that one need not apologise for contributing his tithe to the furtherance of a better understanding. The beginning of the twentieth century would have been spared the spectacle of sanguinary warfare if Russia had condescended to know Japan better. What dire consequences to humanity lie in the contemptuous ignoring of Eastern problems! European imperialism, which does not disdain to raise the absurd cry of the Yellow Peril, fails to realise that Asia may also awaken to the cruel sense of the White Disaster. You may laugh at us for having “too much tea,” but may we not suspect you of the West have “no tea” in your constitution?

 ひょっとすると歯に衣着せぬ物言いのために茶道への私の無知が知れてしまうやもしれぬ.茶道の高雅な精神とはあなた方の期待することを述べ、それ以外は言わないのである.しかし私は高雅な茶人になろうとするものではない.新旧世界の相互の誤解によって大変な危害が既に生じてしまっているので、両者のより良い理解促進のため些か貢献するのを全く弁解するつもりはない.もしロシアが日本をよく知ろうと謙っていれば、二十世紀初頭に血なまぐさい戦争を目撃することは免れたであろう.東洋の問題を蔑ろとし顧みないのであれば、なんと凄惨な結果を人類に及ぼしたものか.ヨーロッパの帝国主義、馬鹿げた黄禍論を掲げ蔑むことを恥じず、アジアもが白禍という悍ましさに目覚めるかもしれないことに気づいていないのである.あなた方は「茶目っ気がありすぎる」と我々を笑うかもしれないが、あなた方西洋はその性質に「茶目っ気がない」ではないか.

Let us stop the continents from hurling epigrams at each other, and be sadder if not wiser by the mutual gain of half a hemisphere. We have developed along different lines, but there is no reason why one should not supplement the other. You have gained expansion at the cost of restlessness; we have created a harmony which is weak against aggression. Will you believe it? – the East is better off in some respects than the West!

 互いに大陸から警句を投げ合うのを止めにして、両者に得る所があれば賢くなくとも悲しみの情をもとうではないか.我々は異なる道を歩んできたが、一方が他方を補ってはならない理由がどこにあろう.平安のなさを対価にあなた方は領土を拡大してきた.我々は攻勢に対し脆い調和を生み出してきた.信じてもらえるか.西洋よりも東洋はある種勝っているのだと.

Strangely enough humanity has so far met in the tea-cup. It is the only Asiatic ceremonial which commands universal esteem. The white man has scoffed at our religion and our morals, but has accepted the brown beverage without hesitation. The afternoon tea is now an important function in Western society. In the delicate clatter of trays and saucers, in the soft rustle of feminine hospitality, in the common catechism about cream and sugar, we know that the Worship of Tea is established beyond question. The philosophic resignation of the guest to the fate awaiting him in the dubious decoction proclaims that in this single instance the Oriental spirit reigns supreme.

 不思議なことに東西の人情はかくも茶碗で出会うのである.茶道は全世界への敬意を司る唯一のアジアの儀式である.白人は我々の宗教と精神を嘲けてきたが、ためらうことなく褐色の飲料を口にするではないか.午後の喫茶は今や西洋社会で重要な役割を担う.盆や受け皿の触れる繊細な音や女性のせっせと給仕する所作に、クリームと砂糖についてのありふれた問答に、「茶の崇拝」が疑いの余地なく確立したことを我々は知っている.客人が運命に諦観して、煎じた茶の味を待つという哲学的忍従、この一例にも東洋の精神が究極に優越するのである.

いつもありがとうございます.

The Book of Tea: 茶の本

The Cup of Humanity 人情の碗

英文:岡倉天心 邦訳:吾郎(亀吾郎法律事務所代表)

 私の文章は機械的に文体を診断にかけると、どうやら岡倉天心の文章に近いらしい.ほとんどの文章が機械的な診断のもと岡倉天心だとされる.ではその岡倉天心はどんな文章を書くのだろうと思って調べると、有名な著作はなんと英文ではないか!じゃあ訳してみたらどうなるだろうかと考えて、まずは第一章の途中までを訳してみることにした.かなり工夫を凝らして訳をしたが先達には遠く及ばない.ところで彼の英文は実に格調高い美しい文だと個人的に思う.そして彼の文体を紐解いて解読する作業は心地よいものであった.少し現象学の話はお休みにして、岡倉天心の理念をご覧になっていただきたいと思う.ちなみに私の訳を文体診断にかけるとやはり岡倉天心に近いということだ.なんだか嬉しいような恥ずかしいような.岡倉先生、見てますか.

Chapter I 第一章

 
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TEA began as a medicine and grew into a beverage. In China, in the eighth century, it entered the realm of poetry as one of the polite amusements. The fifteenth century saw Japan ennoble it into a religion of aestheticism – Teaism. Teaism is a cult of founded on the adoration of the beautiful among the sordid facts of everyday existence. It inculcates purity and harmony, the mystery of mutual charity, the romanticism of the social order. It is essentially a worship of the Imperfect, as it is a tender attempt to accomplish something possible in this impossible thing we know as life.
 茶は薬として始まり、飲料へと相成った.中国では八世紀に高雅な楽しみの一つとして詩歌の領域に入った.十五世紀になると日本は唯美主義の信奉を始めるようになった.茶道である.茶道は日常に埋もれる俗物の中の美を礼賛する行いに基づく儀礼である.茶道は純粋と調和、互いに慈しみあう神秘、社会秩序のロマンチシズムを説く.本質的には不完全を讃えるのであり、人生のように不可能なことにおいて何か可能なことを成し得ようとする儚い試みである.

 

 

The Philosophy of Teaism is not mere aestheticism in the ordinary acceptance of term, for it expresses conjointly with ethics and religion our whole point of view about man and nature. It is hygiene, for it enforces cleanliness; it is economics, for it shows comfort in simplicity rather than in the complex and costly; it is moral geometry, inasmuch as it defines our sense of proportion to the universe. It represents the true spirit of Eastern democracy by making all its votaries aristocrats in tase.
 茶道の理念は単に言葉通りに受け止められる唯美主義ではなく、人と自然についての包括的な視点を、倫理および宗教とかたく結びついて表現するのである.茶道は衛生学である、というのは清潔さを請うからである.茶道は経済学である.複雑奢侈よりもむしろ簡素さにやすらぎを見出すからである.茶道は修身の幾何学である.なぜなら森羅万象に均整の感覚を定義するからである.茶道の信奉者をして嗜みの貴族に足らしめることで東洋の民主主義を顕すのである.

 

 

The long isolation of Japan from the rest of the world, so conductive to introspection, has been highly favourable to the development of Teaism. Our home and habits, costume and cuisine, porcelain, lacquer, painting – our very literature – all have been subject to its influence. No student of Japanese culture could ever ignore its presence. It has permeated the elegance of noble boudoirs, and entered the adobe of the humble. Our peasants have learned to arrange flowers, our meanest labourer to offer his salutation to the rocks and waters. In our common parlance we speak of the man “with no tea” in him, when he is insusceptible to the seriocomic interests of the personal drama. Again we stigmatise the untamed aesthete who, regardless of the mundane tragedy, runs riot in the springtide of emancipated emotions, as one “with too much tea” in him.
 日本が世界から長く孤立していたことは、内省にとり大いに寄与するものであり、茶道の発展に大層好都合であった.我々の家屋や慣習、衣装と料理、磁器、漆器、絵画、文学ですら、茶道の影響を蒙ってきた.茶道を知らずして日本文化を学ぶことはできない.茶道は貴人の寝室を満たし、陋居に立ち入るのだ.田夫らは生花の作法を学び、生真面目な庸人に岩水への敬意を説く.我々の言葉では、真面目でもあり滑稽でもある一個人の顛末に対して心動かさずにいる者は「茶目っ気がない」という.また我々は、浮世の悲劇に頓着せず、自由気ままな感情をありのままに任せようとする明け透けな耽美者を「茶目っ気があり過ぎる」と非難するのである.

 

 

The outsider may indeed wonder at this seeming much also ado about nothing. What a tempest in a teacup! he will say. But when we consider how small after all the cup of human enjoyment is, how soon overflowed with tears, how easily drained to the dregs in our quenchless thirst for infinity, we shall not blame ourselves for making so much of the tea-cup. Mankind has done worse. In the worship of Bacchus, we have sacrificed too freely; and we have even transfigured the gory image of Mars. Why not consecrate ourselves to the queen of the Camellias, and revel in the warm stream of sympathy that flows from her altar? In the liquid amber within the ivory porcelain, the initiated may touch the sweet reticence of Confucius, the piquancy of Laotse, and the ethereal aroma of Sakyamuni himself.
 確かに外野からすれば上辺だけのことをこうして空騒ぎするのを驚くかもしれない.たかが茶碗一杯で騒ぎおって!と.しかし人の享楽が込められた茶碗は結局小さいではないかと、碗はたちまちにして涙で溢れてしまうではないかと、無限への抑えきれぬ渇望をして最後の雫を飲み干すのは如何に容易いことかを考えると、我々は茶碗を持て囃したからといって自分を責めてはならないのだ.人類なぞもっと酷い.酒神バッカスの崇拝において我々はあまりにも奔放に犠牲を払ってきた.そして軍神マルスの流血の姿を美化しさえした.なぜ我々はカメリアの女帝に身を捧がないのか、そしてその祭壇から流れる暖かな共感をなぜ堪能しないのか.象牙色の磁器にある琥珀の流体に、孔子の甘美なる沈黙、老子の風刺、釈迦牟尼の放つ天上の芳香に、入門者は手を触れることができるのだ.

 

 

Those who cannot feel the littleness of great things in themselves are apt to overlook the greatness of little things in others, The average Westerner, in his sleek complacency, will see in the tea ceremony but another instance of the thousand and one oddities which constitute the quaintness and childishness of the East to him. He was wont to regard Japan as barbarous while she indulged in the gentle arts of peace: he calls her civilised since she began to commit wholesale slaughter on Manchurian battlefields. Much comment has been given lately to the Code of the Samurai, – the Art of Death which makes our soldiers exult in self-sacrifice; but scarcely any attention has been drawn to Teaism, which represents so much of our Art of Life. Fain would we remain barbarians, if our claim to civilisation were to be based on the gruesome glory of war. Fain would we await the time when due respect shall be paid to our art and ideals.
 自身にある偉大さから小さな事物を感じることのできないものは他者の小さな事物にある偉大さを見落としがちである.凡庸な西洋人はその艷やかな満悦をもって、彼にとって東洋の奇天烈さと幼稚さを成す無数の異質性のさらなる一例を茶会に見出すに過ぎない.我々が平和の寛大なる技芸に耽っている一方で西洋はきまって日本を野蛮とみなしたのである.日本人が満州の戦場で大量殺戮をしでかすようになってから西洋人は我々を文明化したというのである.侍の規律、すなわち兵士が自己犠牲を良しとする死の作法について近日多くの意見が寄せられてきたが、茶道に全くといって注意が向けられないのである.茶道は、我々の生の作法を実に表しているのだ.もし我々が文明と主張するところが気味悪い戦争の栄光に根ざすのであれば、我々は喜んで蛮人となろうぞ.むしろ我々の芸術と理想に然るべき敬意が払われるまで喜んで待つこととしよう.

 

When will the West understand, or try to understand the East? We Asiatics are often appalled by the curious web of facts and fancies which has been woven concerning us. We are pictured as living on the perfume of the lotus, if not on mice and cockroaches. It is either impotent fanaticism or else abject voluptuousness. Indian spirituality has been derided as ignorance, Chinese sobriety as stupidity, Japanese patriotism as the result of fatalism. It has been said that we are less sensible to pain and wounds on account of the callousness of our nervous organisation! 

いつになれば西洋は東洋のことを理解し、もしくは理解しようとするのだろうか.我々アジア人は、我々に関して織り成された事実と空想を散りばめた奇妙な話によってしばしば驚かされる.我々はねずみやゴキブリを食べているのでなければ、蓮の香りで生きていると描かれている.無力な狂信あるいは卑しむべき淫蕩のいずれかである.インド人の霊性は無知で、中国人の生真面目さは愚かだとされ、日本人の愛国心は運命論の結果と嘲笑されてきた.我々は神経組織の不感のために痛みや傷に対して感じることが少ないと言われてきたのだ.

ここまで読んでくださりありがとうございます.

フェノメノロギシュ・レダクシオンII

この記事を読む前に言っておくッ!おれは先程奴(吾郎)の解説をほんのちょっぴりだが理解した.
い…いや…理解したというよりはまったく理解を超えていたのだが……
あ…ありのまま今感じたことを話すぜ!
「おれは奴の記事を読んでFerrariの話かと思っていたらいつのまにか現象学の話になっていた」
な…何を言っているのかわからねーと思うが俺も何を解説されたのかわからなかった…
頭がどうにかなりそうだった…トンデモ科学だとかAmwayの勧誘だとかそんなチャチなもんじゃあ断じてねぇ
もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ…

 前回の話を簡単に述べる.特に人文科学において「認識の問題」というのがテーマになることがある.「主観と客観が一致する」ということは自然科学ではあたかも自明なのだが、それ故に自然科学では「なぜ主観不一致はありえないのか」を解明することができない.そもそも問題になっていない.これを解明する哲学の試みとして現象学が知られる.従来の考えであった「主観」と「客観」の図式を一旦棄却し、「内在」―「超越」という関係で我々の認識を再確認してみることで人文科学の見失っている認識の可能性を復権する目論見がある.

 「内在」という概念はこれらは絶対不可侵の疑いようのない意識であり、現象学はここからスタートする(現象学的還元).「超越」は「内在」とは対極にある概念であり少しでも疑わしき可疑的な要素をいう.

 ちょっとここで脱線したい.ただでさえお前の話は長いのにどうして脱線するんだ、脱線するのを断るやつがいるか、と叱られるかもしれない.しかし、勇気を以て脱線する.

こんな話をご存知ないだろうか.私の好きな説話を紹介したい.

 昔者莊周夢爲胡蝶.栩栩然胡蝶也. 自喩適志與.不知周也.俄然覺、則蘧蘧然周也. 不知、周之夢爲胡蝶與、胡蝶之夢爲周與. 周與胡蝶、則必有分矣.此之謂物化.

              ー『荘子』斉物論第二

 以前のことだが、私、荘周は夢の中で胡蝶となった.喜々として胡蝶になりきっていた.自分でも楽しくて心ゆくばかりにひらひらと舞った.荘周であることは全く心にもになかった.ふと目が覚めると、これはなんと、荘周ではないか.さて、荘周である私が夢の中で胡蝶となったのか、自分は実は胡蝶であって、今夢を見て荘周となっているのか、いずれが本当か私にはわからない.荘周と胡蝶とには確かに形の上では区別があるはずだ.しかし主体としての自分には変わりは無く、これが物の変化というものなのだ.

 胡蝶の夢で知られる荘周(莊子)の説話である.これは中国の戦国時代の話であるからHusserlより遥か前だが「内在」―「超越」の話としてもよいのではないだろうか.荘周である姿や胡蝶である姿は可疑的な存在「超越」であるが、自分が自分であるという認識は疑いようのない認識「実的内在」である.

 時は流れ、Descartesも「方法序説(Discours de la méthode)」において夢の話を用いて、主観がどんなかたちで対象をもっていようとその対象が「実在」しているという確証はありえないと主張した.ただ一切を虚偽と考えようとする自分はどうしても自分自身でしかないと気づく(Je pense, donc je suis).Descartesも結局は主客不一致に至った.

 以降、近代哲学はこの問題を「認識問題(Epistemology)」として捉え、解明に挑んできたという.B. Spinoza, D. Hume, I. Kant, W. Hegel, K. Marx, F. Nietzscheらは認識論において有名なおっさんであるようだ.E. Husserlはそのおっさんたちに含まれる.

 認識批判ということをHusserlもする.自明の認識の構図を取り払い、新しい認識の考えを見出すことを試みる.そのためにまずは「主観」―「客観」の一致が真理すなわち客観認識である考え方を一旦中止する.これを業界用語でエポケー(epoché)という.小学生くらいだと「ちょっとタンマ!!」という感じか.判断中止ともいう.この方法によって「客観的認識」や「妥当な認識」というものが一体何なのかを、問い直す.これは何の役に立つのだろうと思う人は、少し考えて貰えれば嬉しいのだが、例えば道を歩くカップルがこんな話をしていたとする.

 女性「ねーねー、私が作った昨日のハンバーグ、どうだった?」

 男性「(中華丼じゃなかったっけ)うーん、フツーだったよ」

 女性「なに、フツーって」

 男性「フツーはフツーだろ」

 女性「それじゃわからないじゃん、美味しいとかないの?普遍的な認識が成立することはないと思うけどさぁ、その言い方は極めて曖昧さと不明晰性が含まれるから、私agreeできない.ほんとあんたって昔からそうだよね、何でも曖昧.私、あんたのそういうとこマジムカつくから.大体、こっちが飯つくってやってるのにろくに手伝わねーし『献立何がいい?』って訊いても『なんでもいい』ってばっかり.あんた何でもいいっていうならさ……」

 ごくフツーの会話かもしれない.Twitterのタイムラインで紛争が勃発がするときは普遍的認識をめぐる対立が少なくないと個人的に思う.「フツー」という言葉は難しい.「フツー性をめぐる揚げ足の取り合い」のような構図になる.もし、仮に、認識論の決着がつくとすれば、上記のカップルの口論は収束するかもしれない.

 というわけでちょっと考えてみよう.まずは誰にとりどんな疑わしさや不明晰性を含まない認識があるのだろうか、というところから出発する.これを「第一の認識」と呼ぶらしい.Husserlの言い方なら「絶対的所与性」.絶対に与る所.それって何でしょう.

 既にDescartes兄貴には認識批判の試みとして方法的懐疑があるのだった.兄貴は、「ただ一切を虚偽と考えようとする自分はどうしても自分自身でしかない(Je pense, donc je suis)」ということから「第一の認識」を見出そうとした.これに倣い、Husserlは自分自身によって内省された「意識作用」を「第一の認識」とした.我々の意識というのは様々な対象を知覚したり、表象したり、判断したりする.自分が目の前で伝説のスポーツカーを間近に見ていると思っていても、それはハリボテかもしれない.莊子が胡蝶の夢を見ているのか、胡蝶が莊子の夢を見ているのかわからないのと同じように、自分がどんな対象を意識のうちに体験したとしても、それが「客観に的中(一致)している」とは限らない.

 とはいえ、対象が実在するかはわからないけれど、それによって「自分の意識に確かに与えられていること」自体は決して誰にも疑えないよね、という確信に着目する.そこでHusserlは「意識対象」としての所与を「絶対的所与性」とみなし「第一の認識」とした.(ちなみに、この絶対的所与性がなんらかの理由によって侵された場合、人はどうなってしまうのだろうかという問いかけは精神病理学の領域であると思う.幻覚や妄想は病的な絶対的所与性であるだろう.絶対的所与であるがゆえに修正はできないのは明らかだ.そもそも修正しようとする方がおこがましい気がする)

 風呂に入る時に温水の感覚を心地よいと感じたその意識作用はありありとしていて、内省的に対象化することができる.こうした知覚体験の構造は誰にとっても共通の構造とみなすことができる.湯船に浸かる時、ちょっとぬるいなとか、少し熱いなと思うのはそれぞれだが、知覚体験が各々に与えられるという意味で、共通だということだ.スーパー銭湯のサウナに寄りロウリュ(löyly)とアウフグース(aufguss)のサービスを受けるときに感じる熱気と香りの心地よさは自分と他人で異なるように知覚体験は同一ではない.こうしたことを「射映」、「地平」というらしいが.説明を省く.

 認識問題の謎という点で中核となっているのは、主観以外は何もわからない、客観というものはどこまでも超越している、つまり決して客観を把握することはできないということだった.それは少し前の記事で触れたが、自分で見直してもわかりにくい内容になっている.大変申し訳ないことは承知している.しかしHusserlの言っていることはどうしようほどもなくわかりにくいのだ.彼の著作自体、その関係が曖昧になっている.「内在」―「超越」の考え方をもう一度振り返ってみる.

 Husserlは2つの「内在」―「超越」構造があるといった.「構成的内在」対「超越」.「実的内在」対「構成的内在」.まず前者を話す.

 前者はいわゆる一般的に知られる「内在」―「超越」.意識体験において実的に見出される所与、知覚や想起ということになる.朝の満員電車で漂う臭気を不覚にも嗅いでしまい、

「くっっっさあぁぁぁ」

と思うのが内在.そこから、

「だれだよ……このワキガ……ちくしょー!ちゃんと制汗剤塗ってから出社しろよな〜」

と感じるのは超越.実際に臭いが発せられているかは確からしくても、少しでも疑わしくば内在を超越する.さらにその臭いがワキガなのかもわからない.別の体臭かもしれないし、人間から生じたものかもわからない.制汗剤は塗ってきたかもしれない.ひどい話をすれば気の所為かもしれない(気の所為で済まされるか馬鹿野郎!).

 後者は「実的内在」―「構成的内在」.

  例えば、貴方がコーヒーを飲んでいるとする.職場の昼休みに、給湯室に昔から設置されているボロいコーヒーメーカーで作られた不味いコーヒーを飲むとする.コーヒーが好きな貴方にとってこれしかないのだ.「コーヒーを飲む」という認識は、客観認識=超越的認識となる.コーヒーではなく、コーヒーを模した泥水なのかもしれないからだ.コーヒーを飲んでゲロ不味いと思う意識体験は、繰り返すが、クソ不味かろうと、絶対的に与えられた体験である.これは実的内在である.となると、この構図でいう構成的内在とはなんぞや.とりあえずマグカップの液面に映る茶色の液体.カスのようなものが浮いている.茶色、液体、浮遊物という特徴.これらは意味を持つ対象だが、茶色、液体といった意味の受け取り方は各人に委ねられている.委ねられているにしてもその所与性は絶対的である.今、自分が飲んでいるのは「壊滅的に不味いコーヒー」だという意識.これは疑いようがない.ただ、構成的内在が超越とされるのは、それが内在のうちで構成されるものである故に、一種の超越性をもつからだという.うーむ……なんだか後付感半端ねぇなぁ.

 要素である実的内在、それらから帯びてくる意味性が構成的内在.どちらも絶対的所与性であるのがHusserlの考える所であるようだが、構成的内在は内在なのか、超越なのかどうもはっきりしない.構成という言葉を巡っては学者さんの中でも意見が分かれるそうだ.

 余談ではあるが、ある女性の患者さんと面接するときに「実は私の衣類からオヤジのにおいがするんです、誰か男の人が入ってきたのでしょうか」と相談されたことがある.その人は女性だけの病棟に入院していたが、誰しも出入りは専用の鍵がないといけない.誰か侵入に成功しても看護師さんの詰め所の前を通らねばならないので、事実上不可能である.よって男の人が入ってくることはない.聡明な読者の皆さんは「それはきっと(以下略)」と仰るだろうが、それ以上はいけない.患者さんにとって臭いがするのはその人にとって所与される意識体験だから内在.しかしそれがオヤジのものなのかは超越する.オヤジの臭いかどうかは疑念がつきまとうが、オヤジの臭いという対象意味を感取するのは、加齢臭、不快さ、臭いの局在性といった要素で構成されるからであろうか.となるとオヤジ臭さを意識するのは構成的内在になるのか.他者の志向性に敏感な疾患特異性も考慮すべきだろう.

 次回につづく.いつも読んでくださりありがとうございます.

フェノメノロギシュ・レダクシオンI

図1

図2

 

 上の2つの画像をご覧いただきたい.見る人によって感想がきっと違うと思う.「赤い車だな」と感じるのはきっと共通した意見だろうがそれ以上はどうだろうか.「変な顔だ」「俺はあまり好きではない」「やっぱすげえなぁ」「俺実物で見たことあるよ」「昔乗ってましたね」なんて意見があるかもしれない.「もしかしてFerrari?」「そんなことより今日も暑いね〜!!」

 すでに気づいた方もいるかもしれない.上のうち二つは同じ車ではない.どちらかがどちらかを模したものである.そう言われれば「あぁそういうことか」と理解した人もいると思う.一体何のことを言っているのかさっぱりだという方は安心していただきたい.わざとわからないようにしたのであり、わかる方はほとんどいないはずだから.

 この二者を提示して何を言いたいのか.以前の記事で予告した伏線を回収するために今回特集を組んだ.それでも何を言っているのかわからないぞ、という方.ご辛抱いただきたい.この記事は事前の知識がなくても問題ないように作っているつもりなので.

 図1、図2のどちらかは、Ferrari F40と呼ばれるFerrari社が製作した自動車のレプリカの写真である.

「へぇ、そうなんだぁ」という声が聞こえてきそうだ.「ふむふむ、やっぱりそうだったんだね」という洞察に長けた方もいらっしゃるかもしれない.だが、もし違いに気づいた方がいれば、何をもって違うといえるのだろうか.

「ほら、フロントバンパーの形状が違うじゃない、図1は薄いけど図2は厚みがある」

確かにそうかもしれない.でも気の所為かもしれない.

「そんなこと言われたら自信ないよ、ずるいって」

 そういうご意見は真っ当なものだ.まぁ写真だけじゃなくて他にも色々な角度から吟味した方が良いだろう.だがこのブログの性質上、平面以上のことはできない.悪しからず.

 

 さて、自分の見るもの、聞くもの、触れるもの、味わうものといったものは人にとってかけがえのない感覚で、それらを頼りに私達は生活している.「この魚、鮮度がよさそうだからこれにしよう」と考えてスーパーマーケットで買い物をするし、「以前にしまっておいた煮物、なんだか酸っぱいな、傷んじゃったのかな」と味見をする.

 オンラインで買い物をするときもレビューをよく見て、「なんだか良さそうだからこれにしよう」と考えて決めることも往々にしてよくあることだろう.失敗することもしばしばだが.人々は皆自分の感じたことをもとに判断を下して、意見を述べたり記録する.そうした判断、実践の積み重ねが学問、芸術、文化となっていつしか手の届かない領域まで延長され、広がってゆく.

 「あの先生はあぁ言っていたけれど、私は違うように思う.私はこうだと思うから、私の考えを広めたい」

という人がいたとする.その人は研究者の中でも若手の気鋭であるが、師事する先生の考えはどうしても相容れなかった.新しい学派を興してこれを主流にしようとする.新学派と旧学派が生まれる.

 「どちらとも何をいっているんだ、論点がガバガバじゃないか」という勢力も出てくる.論壇は混迷を極める.徐々に複数の学派が対立して、主流派なぞは存在しなくなり、終いには「かめはめ派」や「唐紅に水くくると派」といった泡沫学派が誕生する.(一体何の学問だろう?)

 このような事態が生じるのはなぜか、という問に対してある哲学者は「主観」―「客観」の不一致が生じるからだ、と言う.自分が思っていることと、世の中で知れまわっていることは一致しないという.そうかも.結局のところ、自分は主観であって、客観になりえない.「客観的に見て」という言い方も畢竟するに主観的な物言いである.

 そういう意見もあるけど、光の速さって誰から見ても一緒じゃない?長さだって、メートル原器があるし、そもそも定規とか巻き尺があるから長さは皆から見ても一緒ですよね.温度も同じことが言えますよね.単位は違っても換算すれば結局同じ話じゃないですか、貴方何がいいたいんですか?

 という辛辣なご意見もいただくに違いない.仰る通りで、光速、温度などは高度な内容を追求しない限りは自明な基本概念や単位と考えられている.しかし、それはすでに「主観」―「客観」を一致したとみなして議論を進めているのではないか?あたかも当然の如く、光の速さは均一だとか数学・物理学の議論が自明性を帯びているからだとされているからでは?私は光速の絶対性や数学の学問の正しさを学術的に論じることはできない.だがおそらく多くの人々は、ごく自然に1+1が2であることを経験的に理解する.自然現象を観察し、帰納的に導くことで公理や法則を発見する.こういった自然科学において、「主観」―「客観」の一致は暗黙に認められている.認めないわけにはいかない.でないと学問が瓦解してしまう.

 ところが、人文科学においてはそうは問屋が卸さない.先程述べた事例があちこちで生じている.例えば心理学はFreud派もいればJung派もいる.Adler派、Klein派……きりがない.政治学においてもイデオロギー対立は生じたままであるし、歴史を巡って、異なる学派はいつも喧嘩ばかりしている.学問を超えてインターネット掲示板でもツイッターでも激しいレスバトルが繰り広げられる.認知科学と称して心の動きを調べる研究があるじゃないかという指摘はあるかもしれない.しかし、それは心という機能が存在するという事前の了解に基づいた研究であり、実証的科学の域を出ない.認識の根本の可能性に迫ってはいない.なぜこんなことになっているのか.

 それはE. Husserlの言葉を借りると近代哲学以来の「認識問題」における謎、すなわち「主観」ー「客観」が一致しない謎が解明されないからだという.またHusserlかぁ…… ほんと亀吾郎法律事務所はHusserlばっかりだなぁ……

 「えっ、じゃあ解明されたら、そのごちゃごちゃした学説や学派は一つのなるのかな」という問に対する答えは今のところない.解明されていないのに解明してからのことを考えるのはちょっと気が早い.でもなんとか、その謎を解き明かしてみようとする努力はなされてきた.

 「認識問題に関する謎」つまりそれは「『主観』―『客観』は決して一致しない」という哲学的原理(以下、「主客不一致」)から出発するが、その解明の試みはR. Descartes, I. Kant, D. Humeらが挑んできたという.結局のところ彼らの意見では主客は一致しないという結論になっている.その後の流れは一度割愛する.

 一方、数学的妥当性など自然科学の分野で主客は一致していることが自明となっている.客観的な認識、妥当な認識によって人類は月面に着陸し、音速を超え、インターネットで世界をつないだわけだ.謎が明らかではないのに、我々は主客一致を前提とした自然科学の確からしさを知っている.なぜだろうか.これをHusserlは次のように問いかけた.

 事象そのものを的確に捉える認識の可能性に反省を巡らすとき、我々を悩ます様々な難題.例えば、それ自体として存在する事象と認識との一致はいかにして確信されるのか.認識はいかにして事象そのものに「的中する」のか.

 主客不一致が真であれば、そもそもなぜ「客観認識」というものが可能なのか(なぜ「的中」しうるのか).いや、じつは不可能なのか.自然科学でなされる主客一致が、なぜ人文科学でなし得ないのか.それはつまり、「認識」の本質とは何か、ということになってくる.

 Husserlによると、この謎を解く手がかりが一つだけある.認識の本質を紐解く方法論が現象学である.

 その方法を現象学的還元(Phänomenologische Reduktion)という.おお〜なんだかかっこいいじゃん.

 問題を解決するためには、「主観」という「客観」対立概念を一度棄てる.その代わりに別の図式で考えてみる.「内在(immanenz)」―「超越(tranzendeniuz)」という関係で.    

 

ん?

 

 まず「内在」は現象学的にいうと(Husserlの考えに基づいていうと)、内省によって捉えられる「意識」のありようをいう.誰でも、自分の知覚体験がどんな具合かは内省して見て取れる(知覚を知覚できる).ダジャレで言うと、「おしっこが近くなったことを『尿意』と知覚する」.「内在」は決して「心」だとか心理学的な用語ではない.「心の中」にあるものが内在で、それ以外を「超越」と考えるのはいけない.心理学は哲学ではない.まったく違う.

 「おしっこに行きたくなる感覚は自分だけに与えられた感覚であるから、これは自分にとって申し分なく全くの疑わしさなく、『尿意』である」

 あるいは、

 「あの物体が『Ferrari F40だ』という感覚は自分にとって疑いのないものである、この感覚は誰がなんと言おうと不可侵である」そういった感じだろう.たぶん現象学をおしっことFerrariで例えたのは私だけか.

 さて、内在という概念がものすごくピュアなものであることを説明したところで、Husserlおじさんの話をよく聞いてみる.「内在」は「実的内在」と「明証的に構成された内在(明証的に構成される自己所与性という意味での内在)」にはっきり分かれるんだね、という.この区別が大事なのだとHusserlは言うのだ.

 まず「実的内在」とはなんぞや.これは「どう考えても、どうあがいても誰にとっても現に疑いようのない方法で自らを与えているもの」(=絶対的所与性)を言う.

 つまり、図1、図2を見て、「赤い」「角張っている」「車輪があるな」といった知覚、想起、想像などの「個別な直観」をいう.要はパーツである.要素と言っても良さそうだ.

「いやいや、どう見ても緑ですよ!いやーなんといってもこの球体はすばらしいなぁ!!」ということにはならないから、やはり認識における「決して誰も疑えない契機(要素)」である.

 もう一つは明証的に構成された内在(明証的に構成される自己所与性という意味での内在)」.これは長すぎるので「構成的内在」と呼ぶ人が多い.それは何か.

 それは実的内在を受けて構成された「対象的意味」をいう.例を述べる.

 図1、図2を見て、こう洞察する.「赤くて角張っていて、車輪があって……ワイド&ローなボディに大きなリアウィング.抑揚のないボディで2ドアだろうから、これはクーペボディか.エアインテークがドア後方にあるからミッドシップレイアウトだな.スポーツカーかレーシングカーかな.少しタレ目のようなヘッドライト、その後ろに格納されたハイビームのリトラクタブルライト、サイドミラーがあるから公道走行できるんだろう.じゃあナンバーが取得できるスポーツカーだな.ボンネットの前方にわずかに見えるロゴはおそらく跳ね馬の紋章だ、とすればFerrari F40だろうか」といった具合だ.

 Husserlの言わんとすることは、ある知覚体験を持つとき、「内在」には必ずこの2つの要素の「所与性」が存在するが、これら二つはどちらも絶対の絶対に絶対に疑えない契機(要素)であるということ.二つとも明証的な所与性である(この明証性が病的に破綻した場合はおそらく精神病圏へ足を踏み入れるのだろう).

 では、超越とはなんだろうか.念の為申し上げておくと、これまで拙作のブログ記事を読んでくださった方は超越を混同してしまうかもしれない.ここで出てくる超越は全く別の使い方をする.哲学における超越は結構重要な用語なので誤解して欲しくない.

 「内在」は絶対に疑えない要素、「超越」は反対に、必ず「疑わしさ(可疑性)」を持つ.また、例を出そう.

 図1、図2を見て「これらはFerrari F40だ」と思ったとする.これを「内在」―「超越」で考える.「これらはFerrari F40だ」という認識は実は「超越」的な認識である.

 なぜか.実はどちらもFerrariではなくてPontiac社のFieroかもしれないからだ.Pontiac FieroはFerrari F40のレプリカベースでよく知られている.失礼な言い方をすると劣化レプリカである.もしかすれば車ではなくて、精巧に作られたハリボテかもしれない.実在性がわずかでも疑わしいもの(可疑的であるもの)は皆「超越」といわれる.すべての超越的認識は可疑性をもつ.この点に関してHusserlおじさんはしつこい.

 あれ?さっきF40の説明の件で構成的内在って言ってなかったっけ?ごちゃごちゃしてくる方がいるかもしれない.しっかり言っておくと、F40の実在性に関しては可疑的なのだということだが、図を見て「これらはFerrari F40だ」と思う意識体験自体は、決して疑いようのないものだということだ.わからない?大丈夫.まだ話は終わっていないから.

 車の写真を見せられたと思ったらいつのまにか哲学の話になっていた、と思った方がいらっしゃればそれは筆者冥利に尽きる.この話はもう少し連載するので興味を持ってくださったらとても嬉しい.ご期待いただければ幸いである.

 

ここまで読んでくださってありがとうございます.

黄昏ミッドシップ

晴れた夏の日の夕暮れになると、決まって雨が降る.遠くから雷雲が見えてあたりが急に暗くなる.こもった低音が鳴り響いて、陽光を覆い隠すと、薄暗い灰色の空からポタポタと雫がこぼれ落ちてきて、途端に止めどなくすべての空間を雨が隙間なく敷き詰めてしまう.細い稲光が少し現れて、いつ音が鳴るか、待ち構える.だれもが知っている夕立.日中の熱を溜め込んだアスファルトから湿気がムンムンと漏れ出して独特の臭いを感じる.早く帰りたいな.これから帰ろうと思っていたのに.傘がないな、困ったな.あそこに雷が落ちたんじゃないか、うちは大丈夫だろうか.止むまでちょっと待っておこうかしら、そんな考えが飛び交いそうな日が多くなった.

 私は職場へ少し忘れ物を取りに事務所の社用車で外出していたのだが、それを取って家に帰る途中だった.盆の半ばで幹線道路は少し空いていたあの日だった.遠くの空が危ない色を放っていて今にも降り出しそうな、いや、まだ大丈夫そうだろうと逡巡.すると、ボタッとフロントガラスに一滴、二滴.すぐに数え切れなくなって、ワイパーを動かす.それでも視界が確保しづらくてやや焦る.速度を落とす.未だに豪雨の時に車のワイパーの動く間隔を二番目にすべきか三番目にすべきか悩んでいる.ちょうど良さというのは難しいものだと思う.雨の日はいつも考え事が多くなる.それはいいことなのかもしれない.

 雨音はいつしか途切れない連続音となってザーッザーッと、それ以上に水が無秩序に跳ねる音を奏でる.後ろから聞こえるエンジンの音だけではなくて、タイヤが路面の水をかき分ける音.前の車が巻き上げる水しぶき.様々な情報が雨になると一気に押し寄せてくる.

 ボツボツと音がするのは屋根に伝わる雨音だ.私は番傘を差したことがないからわからないが、布製の屋根に音するのは番傘に響く雨だと風雅なことを言う人が自動車業界でいたそうだ.洋傘でも似た音をするだろうから私は一般的な傘、ということにしておくが、確かに傘を打つ水の雫は、こういう音をする.私は事務所の車を贔屓しているからかもしれないが、いい音だと思っている.ハードトップの屋根にはない音をする.少し前時代的というか、旧世代というのだろうか.そんな考えが思い浮かぶ.どうか誤解しないでいただきたいが、前時代的という言葉に悪意は毛頭ない.もともと車には屋根がなかったのだから.

 ソフトトップ、つまり布製の屋根の車はめっきり数がなくなっているのか、と思えば実はそこまでではない.自動車メーカーのサイトを見れば幌付きの車を売っているところはある.マツダはその好例だろうし、マツダ・ロードスターは路上でよく見かける.本田技研工業のホンダ・S660もよくよく見かける.かつて販売されていたS2000もホンダ・ビートも幌がついていたし、今もちょいちょい走っている.日産自動車Z34ロードスターも稀に認める.もしかすれば外国車の方が幌付きの車と聞いて思い浮かべる人は多いかもしれない.英国だとRoadster, Drophead Coupe, 独仏ではCabriolet. 米国ならConvertibleといった表現で形容されると思う.どれも私からすればワクワクする言葉である.もちろん、屋根の開放を可能にする用語はいくつもあるのは承知している.しかしそれの詳説は本旨から逸れるので割愛する.

 幌型の屋根しかり、可動式屋根の車はどうも気取った奴が乗る印象を持たれている気がする.私だけだろうか.「いや、別にそんなことは気にもかけていませんでした」とか、「あぁ、そうなんですねぇ」という方は多分車には興味があまりない方なのかもしれない.寛容な方とお見受けする.それはそれで別の物事に関心を持たれているに違いないので千差万別あってとてもいいと思う.

 鼻息荒げて、「そんなことは決してないのだ!!諸君、聞き給え」とか、「そうだそうだ、どいつもこいつもみんな気取った奴だ、けしからん!プロレタリアートの敵め!」と思う方はどうか落ち着いていただきたい.反対する人は、二輪車の意見も聞かねばなるまい.二輪車こそ人間が風を受ける乗り物だが、それはプロレタリアだけの乗り物ではないのはご承知だろう.決しては私は熱狂的なファンではないし、かといって反対派を徹底的に論駁するつもりはない.そんなことで記事を書くのではない.どちらかといえば、私は所有する側だから擁護する立場になるのだが、幌付きの車は色々なことを気づかせてくれるのだと述べたい.それに気取ってもいないし、たまには気取ってもよいのでは.

 屋根を空けると、もちろん風が入ってくる.熱い風.冷たい風.心地よい風もあれば、堆肥の芳しい風も運んでくる.煙の臭いがすれば、あぁあそこでなにかを燃しているのかなと思いを巡らせ、牛糞の臭いがするとここには一次産業の営みがあるのだなと気づく.「ここは臭いね」と苦笑いをして隣の乗員と語らう.草花の香りに気づくことはもちろんだ.「この辺はもう花が咲いたんだねぇ」周囲の情景により一層近づいていくことができる.車の名前に風を由来とするものが多いのは偶然ではないはず.アクセルペダルを踏めばクランクシャフトの回転が高まり、車の息遣いもわかる.タイヤが路面を掴む感触がグッとわかりやすくなる.SUVの流行る今ならば、雪道を屋根を開けて走る面白さがあるのだろう.マフラーから鳴る排気音は屋根がしまったときに聞こえるものより生き生きしている.電話越しに聞く恋人の声よりも実際に会って聞く声の方が嬉しいのと似ている.情報量ははるかに多くなる.周りの車の音も聞こえるから注意は一層しやすくなる.車は鋼鉄の工業製品だが、それに生命の躍動を見出すような情動を私は感じる.「車に恋い焦がれるつもりか、この変態め!」という辛辣な御仁もいるかもしれない.しかしだ.陶器の置物に心を奪われたり、画材を塗りたくった平面を、これは芸術だ!というのと原則は同じだと私は思っている.

 車の動きに心を寄せて、狙った角度に操舵しスロットルを緩める、また正中に戻して踏み込む.単純な一連の動作だが奥深く、実は難しくて楽しい.これはどんな車でも言えることなので野暮な表現だが、幌のついた車はいわゆる「スポーツ」性が高め、つまり運動性能が高い部類であったり、余計な装備を省いているものが多いから(賛否あるかもしれない)、心身一如を実感できる.雨が降っても、一部の車を除けば大抵、すぐに屋根はしまうことができる.だから走行中びしょ濡れなんてことはあまりないし、雨漏れはまったくないものだと思って良いのではないか.幌の手入れが大変じゃないかと気にする方もいるかもしれない.販売店で詳しい話を聞けるはずだ.特に難しいことはない.メーカーが大衆に面倒なことを課すわけなかろう、と私は思っている.実際に私は水で汚れを落として細かい汚れを個別に除くだけで、何もしていない.特別気を揉む必要はないだろう.他の車と同じように愛情をもって接すれればよいのだから.

 「幌なんて、無駄無駄.贅沢品じゃない、屋根があったって走るじゃないの.むしろ荷物が詰める場所はなくなるし、かえって不便でしかないでしょ!」よくご存知ですね.確かに収納力は劣るかもしれない.それは逃れられぬ業かもしれぬ.しかし弁護する立場でいえばほとんどのメーカーは積載力と幌の収納機構を両立させようと苦心してきた.そして美観を損ねることなく両立に成功した車は存在する.エンジン搭載位置を前後タイヤ軸の間かつ、座席後方にするMid-ship(ミッドシップ)であれば前方と後方に積載箇所を設けることができる.とはいっても通常のフロントエンジンのセダンやステーションワゴンにはかなわない.エンジンを前方に配置しつつ幌のある車も輸入車には特に多い.結局積載力は犠牲になってしまうが、それを上回る特異な官能は言葉に尽くせないと思う.きっと賛同してくださる方がいると思う.

 もしそれでも無駄だ、と思う方はまぁそれでもいいかもしれない.そういう方もいらして良いと思う.だが、無駄だという価値判断は結局のところ主観的なものであり、曖昧なものにすぎないと私は思う.無駄をどのように定義するかはその人次第であろう.だからあらゆる反論はこちらが公序良俗を犯さない限り、雲散霧消にして消え失せてしまうであろう.動物を飼っている人にとって彼らは愛する家族であるが、嫌いな人にとっては憎むべき対象かもしれぬ.写真が好きな人は撮影装置に愛着をもち、被写体にも思いを寄せる.現像した写真を額縁に入れて満悦するのは無駄だろうか.骨董品だって人によっては遺物でしかないが、それが考古学的に芸術的に価値があろうとなかろうと最終的に価値を決めるのはそれを愛するものだろう.

 したがって、私は幌付きの車でいいと思っている.北海道を一週間くらい旅したときの感想を記事にしたことがあるのでよければご覧になっていただければと思う.

 私は以上のことを考えながら帰路に就いた.雨の日は、こんなことばかり考えながら運転している.いつの間にか雨はやんで、私は家の前の玄関にいた.その日の夕飯は何だったろうか.唐揚げだったかな.