生き延びるための精神病理学

精神病理学を主体に綴る人文学系のブログです

フェノメノロギシュ・レダクシオンII

この記事を読む前に言っておくッ!おれは先程奴(吾郎)の解説をほんのちょっぴりだが理解した.
い…いや…理解したというよりはまったく理解を超えていたのだが……
あ…ありのまま今感じたことを話すぜ!
「おれは奴の記事を読んでFerrariの話かと思っていたらいつのまにか現象学の話になっていた」
な…何を言っているのかわからねーと思うが俺も何を解説されたのかわからなかった…
頭がどうにかなりそうだった…トンデモ科学だとかAmwayの勧誘だとかそんなチャチなもんじゃあ断じてねぇ
もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ…

 前回の話を簡単に述べる.特に人文科学において「認識の問題」というのがテーマになることがある.「主観と客観が一致する」ということは自然科学ではあたかも自明なのだが、それ故に自然科学では「なぜ主観不一致はありえないのか」を解明することができない.そもそも問題になっていない.これを解明する哲学の試みとして現象学が知られる.従来の考えであった「主観」と「客観」の図式を一旦棄却し、「内在」―「超越」という関係で我々の認識を再確認してみることで人文科学の見失っている認識の可能性を復権する目論見がある.

 「内在」という概念はこれらは絶対不可侵の疑いようのない意識であり、現象学はここからスタートする(現象学的還元).「超越」は「内在」とは対極にある概念であり少しでも疑わしき可疑的な要素をいう.

 ちょっとここで脱線したい.ただでさえお前の話は長いのにどうして脱線するんだ、脱線するのを断るやつがいるか、と叱られるかもしれない.しかし、勇気を以て脱線する.

こんな話をご存知ないだろうか.私の好きな説話を紹介したい.

 昔者莊周夢爲胡蝶.栩栩然胡蝶也. 自喩適志與.不知周也.俄然覺、則蘧蘧然周也. 不知、周之夢爲胡蝶與、胡蝶之夢爲周與. 周與胡蝶、則必有分矣.此之謂物化.

              ー『荘子』斉物論第二

 以前のことだが、私、荘周は夢の中で胡蝶となった.喜々として胡蝶になりきっていた.自分でも楽しくて心ゆくばかりにひらひらと舞った.荘周であることは全く心にもになかった.ふと目が覚めると、これはなんと、荘周ではないか.さて、荘周である私が夢の中で胡蝶となったのか、自分は実は胡蝶であって、今夢を見て荘周となっているのか、いずれが本当か私にはわからない.荘周と胡蝶とには確かに形の上では区別があるはずだ.しかし主体としての自分には変わりは無く、これが物の変化というものなのだ.

 胡蝶の夢で知られる荘周(莊子)の説話である.これは中国の戦国時代の話であるからHusserlより遥か前だが「内在」―「超越」の話としてもよいのではないだろうか.荘周である姿や胡蝶である姿は可疑的な存在「超越」であるが、自分が自分であるという認識は疑いようのない認識「実的内在」である.

 時は流れ、Descartesも「方法序説(Discours de la méthode)」において夢の話を用いて、主観がどんなかたちで対象をもっていようとその対象が「実在」しているという確証はありえないと主張した.ただ一切を虚偽と考えようとする自分はどうしても自分自身でしかないと気づく(Je pense, donc je suis).Descartesも結局は主客不一致に至った.

 以降、近代哲学はこの問題を「認識問題(Epistemology)」として捉え、解明に挑んできたという.B. Spinoza, D. Hume, I. Kant, W. Hegel, K. Marx, F. Nietzscheらは認識論において有名なおっさんであるようだ.E. Husserlはそのおっさんたちに含まれる.

 認識批判ということをHusserlもする.自明の認識の構図を取り払い、新しい認識の考えを見出すことを試みる.そのためにまずは「主観」―「客観」の一致が真理すなわち客観認識である考え方を一旦中止する.これを業界用語でエポケー(epoché)という.小学生くらいだと「ちょっとタンマ!!」という感じか.判断中止ともいう.この方法によって「客観的認識」や「妥当な認識」というものが一体何なのかを、問い直す.これは何の役に立つのだろうと思う人は、少し考えて貰えれば嬉しいのだが、例えば道を歩くカップルがこんな話をしていたとする.

 女性「ねーねー、私が作った昨日のハンバーグ、どうだった?」

 男性「(中華丼じゃなかったっけ)うーん、フツーだったよ」

 女性「なに、フツーって」

 男性「フツーはフツーだろ」

 女性「それじゃわからないじゃん、美味しいとかないの?普遍的な認識が成立することはないと思うけどさぁ、その言い方は極めて曖昧さと不明晰性が含まれるから、私agreeできない.ほんとあんたって昔からそうだよね、何でも曖昧.私、あんたのそういうとこマジムカつくから.大体、こっちが飯つくってやってるのにろくに手伝わねーし『献立何がいい?』って訊いても『なんでもいい』ってばっかり.あんた何でもいいっていうならさ……」

 ごくフツーの会話かもしれない.Twitterのタイムラインで紛争が勃発がするときは普遍的認識をめぐる対立が少なくないと個人的に思う.「フツー」という言葉は難しい.「フツー性をめぐる揚げ足の取り合い」のような構図になる.もし、仮に、認識論の決着がつくとすれば、上記のカップルの口論は収束するかもしれない.

 というわけでちょっと考えてみよう.まずは誰にとりどんな疑わしさや不明晰性を含まない認識があるのだろうか、というところから出発する.これを「第一の認識」と呼ぶらしい.Husserlの言い方なら「絶対的所与性」.絶対に与る所.それって何でしょう.

 既にDescartes兄貴には認識批判の試みとして方法的懐疑があるのだった.兄貴は、「ただ一切を虚偽と考えようとする自分はどうしても自分自身でしかない(Je pense, donc je suis)」ということから「第一の認識」を見出そうとした.これに倣い、Husserlは自分自身によって内省された「意識作用」を「第一の認識」とした.我々の意識というのは様々な対象を知覚したり、表象したり、判断したりする.自分が目の前で伝説のスポーツカーを間近に見ていると思っていても、それはハリボテかもしれない.莊子が胡蝶の夢を見ているのか、胡蝶が莊子の夢を見ているのかわからないのと同じように、自分がどんな対象を意識のうちに体験したとしても、それが「客観に的中(一致)している」とは限らない.

 とはいえ、対象が実在するかはわからないけれど、それによって「自分の意識に確かに与えられていること」自体は決して誰にも疑えないよね、という確信に着目する.そこでHusserlは「意識対象」としての所与を「絶対的所与性」とみなし「第一の認識」とした.(ちなみに、この絶対的所与性がなんらかの理由によって侵された場合、人はどうなってしまうのだろうかという問いかけは精神病理学の領域であると思う.幻覚や妄想は病的な絶対的所与性であるだろう.絶対的所与であるがゆえに修正はできないのは明らかだ.そもそも修正しようとする方がおこがましい気がする)

 風呂に入る時に温水の感覚を心地よいと感じたその意識作用はありありとしていて、内省的に対象化することができる.こうした知覚体験の構造は誰にとっても共通の構造とみなすことができる.湯船に浸かる時、ちょっとぬるいなとか、少し熱いなと思うのはそれぞれだが、知覚体験が各々に与えられるという意味で、共通だということだ.スーパー銭湯のサウナに寄りロウリュ(löyly)とアウフグース(aufguss)のサービスを受けるときに感じる熱気と香りの心地よさは自分と他人で異なるように知覚体験は同一ではない.こうしたことを「射映」、「地平」というらしいが.説明を省く.

 認識問題の謎という点で中核となっているのは、主観以外は何もわからない、客観というものはどこまでも超越している、つまり決して客観を把握することはできないということだった.それは少し前の記事で触れたが、自分で見直してもわかりにくい内容になっている.大変申し訳ないことは承知している.しかしHusserlの言っていることはどうしようほどもなくわかりにくいのだ.彼の著作自体、その関係が曖昧になっている.「内在」―「超越」の考え方をもう一度振り返ってみる.

 Husserlは2つの「内在」―「超越」構造があるといった.「構成的内在」対「超越」.「実的内在」対「構成的内在」.まず前者を話す.

 前者はいわゆる一般的に知られる「内在」―「超越」.意識体験において実的に見出される所与、知覚や想起ということになる.朝の満員電車で漂う臭気を不覚にも嗅いでしまい、

「くっっっさあぁぁぁ」

と思うのが内在.そこから、

「だれだよ……このワキガ……ちくしょー!ちゃんと制汗剤塗ってから出社しろよな〜」

と感じるのは超越.実際に臭いが発せられているかは確からしくても、少しでも疑わしくば内在を超越する.さらにその臭いがワキガなのかもわからない.別の体臭かもしれないし、人間から生じたものかもわからない.制汗剤は塗ってきたかもしれない.ひどい話をすれば気の所為かもしれない(気の所為で済まされるか馬鹿野郎!).

 後者は「実的内在」―「構成的内在」.

  例えば、貴方がコーヒーを飲んでいるとする.職場の昼休みに、給湯室に昔から設置されているボロいコーヒーメーカーで作られた不味いコーヒーを飲むとする.コーヒーが好きな貴方にとってこれしかないのだ.「コーヒーを飲む」という認識は、客観認識=超越的認識となる.コーヒーではなく、コーヒーを模した泥水なのかもしれないからだ.コーヒーを飲んでゲロ不味いと思う意識体験は、繰り返すが、クソ不味かろうと、絶対的に与えられた体験である.これは実的内在である.となると、この構図でいう構成的内在とはなんぞや.とりあえずマグカップの液面に映る茶色の液体.カスのようなものが浮いている.茶色、液体、浮遊物という特徴.これらは意味を持つ対象だが、茶色、液体といった意味の受け取り方は各人に委ねられている.委ねられているにしてもその所与性は絶対的である.今、自分が飲んでいるのは「壊滅的に不味いコーヒー」だという意識.これは疑いようがない.ただ、構成的内在が超越とされるのは、それが内在のうちで構成されるものである故に、一種の超越性をもつからだという.うーむ……なんだか後付感半端ねぇなぁ.

 要素である実的内在、それらから帯びてくる意味性が構成的内在.どちらも絶対的所与性であるのがHusserlの考える所であるようだが、構成的内在は内在なのか、超越なのかどうもはっきりしない.構成という言葉を巡っては学者さんの中でも意見が分かれるそうだ.

 余談ではあるが、ある女性の患者さんと面接するときに「実は私の衣類からオヤジのにおいがするんです、誰か男の人が入ってきたのでしょうか」と相談されたことがある.その人は女性だけの病棟に入院していたが、誰しも出入りは専用の鍵がないといけない.誰か侵入に成功しても看護師さんの詰め所の前を通らねばならないので、事実上不可能である.よって男の人が入ってくることはない.聡明な読者の皆さんは「それはきっと(以下略)」と仰るだろうが、それ以上はいけない.患者さんにとって臭いがするのはその人にとって所与される意識体験だから内在.しかしそれがオヤジのものなのかは超越する.オヤジの臭いかどうかは疑念がつきまとうが、オヤジの臭いという対象意味を感取するのは、加齢臭、不快さ、臭いの局在性といった要素で構成されるからであろうか.となるとオヤジ臭さを意識するのは構成的内在になるのか.他者の志向性に敏感な疾患特異性も考慮すべきだろう.

 次回につづく.いつも読んでくださりありがとうございます.