生き延びるための精神病理学

精神病理学を主体に綴る人文学系のブログです

黄昏ミッドシップ

晴れた夏の日の夕暮れになると、決まって雨が降る.遠くから雷雲が見えてあたりが急に暗くなる.こもった低音が鳴り響いて、陽光を覆い隠すと、薄暗い灰色の空からポタポタと雫がこぼれ落ちてきて、途端に止めどなくすべての空間を雨が隙間なく敷き詰めてしまう.細い稲光が少し現れて、いつ音が鳴るか、待ち構える.だれもが知っている夕立.日中の熱を溜め込んだアスファルトから湿気がムンムンと漏れ出して独特の臭いを感じる.早く帰りたいな.これから帰ろうと思っていたのに.傘がないな、困ったな.あそこに雷が落ちたんじゃないか、うちは大丈夫だろうか.止むまでちょっと待っておこうかしら、そんな考えが飛び交いそうな日が多くなった.

 私は職場へ少し忘れ物を取りに事務所の社用車で外出していたのだが、それを取って家に帰る途中だった.盆の半ばで幹線道路は少し空いていたあの日だった.遠くの空が危ない色を放っていて今にも降り出しそうな、いや、まだ大丈夫そうだろうと逡巡.すると、ボタッとフロントガラスに一滴、二滴.すぐに数え切れなくなって、ワイパーを動かす.それでも視界が確保しづらくてやや焦る.速度を落とす.未だに豪雨の時に車のワイパーの動く間隔を二番目にすべきか三番目にすべきか悩んでいる.ちょうど良さというのは難しいものだと思う.雨の日はいつも考え事が多くなる.それはいいことなのかもしれない.

 雨音はいつしか途切れない連続音となってザーッザーッと、それ以上に水が無秩序に跳ねる音を奏でる.後ろから聞こえるエンジンの音だけではなくて、タイヤが路面の水をかき分ける音.前の車が巻き上げる水しぶき.様々な情報が雨になると一気に押し寄せてくる.

 ボツボツと音がするのは屋根に伝わる雨音だ.私は番傘を差したことがないからわからないが、布製の屋根に音するのは番傘に響く雨だと風雅なことを言う人が自動車業界でいたそうだ.洋傘でも似た音をするだろうから私は一般的な傘、ということにしておくが、確かに傘を打つ水の雫は、こういう音をする.私は事務所の車を贔屓しているからかもしれないが、いい音だと思っている.ハードトップの屋根にはない音をする.少し前時代的というか、旧世代というのだろうか.そんな考えが思い浮かぶ.どうか誤解しないでいただきたいが、前時代的という言葉に悪意は毛頭ない.もともと車には屋根がなかったのだから.

 ソフトトップ、つまり布製の屋根の車はめっきり数がなくなっているのか、と思えば実はそこまでではない.自動車メーカーのサイトを見れば幌付きの車を売っているところはある.マツダはその好例だろうし、マツダ・ロードスターは路上でよく見かける.本田技研工業のホンダ・S660もよくよく見かける.かつて販売されていたS2000もホンダ・ビートも幌がついていたし、今もちょいちょい走っている.日産自動車Z34ロードスターも稀に認める.もしかすれば外国車の方が幌付きの車と聞いて思い浮かべる人は多いかもしれない.英国だとRoadster, Drophead Coupe, 独仏ではCabriolet. 米国ならConvertibleといった表現で形容されると思う.どれも私からすればワクワクする言葉である.もちろん、屋根の開放を可能にする用語はいくつもあるのは承知している.しかしそれの詳説は本旨から逸れるので割愛する.

 幌型の屋根しかり、可動式屋根の車はどうも気取った奴が乗る印象を持たれている気がする.私だけだろうか.「いや、別にそんなことは気にもかけていませんでした」とか、「あぁ、そうなんですねぇ」という方は多分車には興味があまりない方なのかもしれない.寛容な方とお見受けする.それはそれで別の物事に関心を持たれているに違いないので千差万別あってとてもいいと思う.

 鼻息荒げて、「そんなことは決してないのだ!!諸君、聞き給え」とか、「そうだそうだ、どいつもこいつもみんな気取った奴だ、けしからん!プロレタリアートの敵め!」と思う方はどうか落ち着いていただきたい.反対する人は、二輪車の意見も聞かねばなるまい.二輪車こそ人間が風を受ける乗り物だが、それはプロレタリアだけの乗り物ではないのはご承知だろう.決しては私は熱狂的なファンではないし、かといって反対派を徹底的に論駁するつもりはない.そんなことで記事を書くのではない.どちらかといえば、私は所有する側だから擁護する立場になるのだが、幌付きの車は色々なことを気づかせてくれるのだと述べたい.それに気取ってもいないし、たまには気取ってもよいのでは.

 屋根を空けると、もちろん風が入ってくる.熱い風.冷たい風.心地よい風もあれば、堆肥の芳しい風も運んでくる.煙の臭いがすれば、あぁあそこでなにかを燃しているのかなと思いを巡らせ、牛糞の臭いがするとここには一次産業の営みがあるのだなと気づく.「ここは臭いね」と苦笑いをして隣の乗員と語らう.草花の香りに気づくことはもちろんだ.「この辺はもう花が咲いたんだねぇ」周囲の情景により一層近づいていくことができる.車の名前に風を由来とするものが多いのは偶然ではないはず.アクセルペダルを踏めばクランクシャフトの回転が高まり、車の息遣いもわかる.タイヤが路面を掴む感触がグッとわかりやすくなる.SUVの流行る今ならば、雪道を屋根を開けて走る面白さがあるのだろう.マフラーから鳴る排気音は屋根がしまったときに聞こえるものより生き生きしている.電話越しに聞く恋人の声よりも実際に会って聞く声の方が嬉しいのと似ている.情報量ははるかに多くなる.周りの車の音も聞こえるから注意は一層しやすくなる.車は鋼鉄の工業製品だが、それに生命の躍動を見出すような情動を私は感じる.「車に恋い焦がれるつもりか、この変態め!」という辛辣な御仁もいるかもしれない.しかしだ.陶器の置物に心を奪われたり、画材を塗りたくった平面を、これは芸術だ!というのと原則は同じだと私は思っている.

 車の動きに心を寄せて、狙った角度に操舵しスロットルを緩める、また正中に戻して踏み込む.単純な一連の動作だが奥深く、実は難しくて楽しい.これはどんな車でも言えることなので野暮な表現だが、幌のついた車はいわゆる「スポーツ」性が高め、つまり運動性能が高い部類であったり、余計な装備を省いているものが多いから(賛否あるかもしれない)、心身一如を実感できる.雨が降っても、一部の車を除けば大抵、すぐに屋根はしまうことができる.だから走行中びしょ濡れなんてことはあまりないし、雨漏れはまったくないものだと思って良いのではないか.幌の手入れが大変じゃないかと気にする方もいるかもしれない.販売店で詳しい話を聞けるはずだ.特に難しいことはない.メーカーが大衆に面倒なことを課すわけなかろう、と私は思っている.実際に私は水で汚れを落として細かい汚れを個別に除くだけで、何もしていない.特別気を揉む必要はないだろう.他の車と同じように愛情をもって接すれればよいのだから.

 「幌なんて、無駄無駄.贅沢品じゃない、屋根があったって走るじゃないの.むしろ荷物が詰める場所はなくなるし、かえって不便でしかないでしょ!」よくご存知ですね.確かに収納力は劣るかもしれない.それは逃れられぬ業かもしれぬ.しかし弁護する立場でいえばほとんどのメーカーは積載力と幌の収納機構を両立させようと苦心してきた.そして美観を損ねることなく両立に成功した車は存在する.エンジン搭載位置を前後タイヤ軸の間かつ、座席後方にするMid-ship(ミッドシップ)であれば前方と後方に積載箇所を設けることができる.とはいっても通常のフロントエンジンのセダンやステーションワゴンにはかなわない.エンジンを前方に配置しつつ幌のある車も輸入車には特に多い.結局積載力は犠牲になってしまうが、それを上回る特異な官能は言葉に尽くせないと思う.きっと賛同してくださる方がいると思う.

 もしそれでも無駄だ、と思う方はまぁそれでもいいかもしれない.そういう方もいらして良いと思う.だが、無駄だという価値判断は結局のところ主観的なものであり、曖昧なものにすぎないと私は思う.無駄をどのように定義するかはその人次第であろう.だからあらゆる反論はこちらが公序良俗を犯さない限り、雲散霧消にして消え失せてしまうであろう.動物を飼っている人にとって彼らは愛する家族であるが、嫌いな人にとっては憎むべき対象かもしれぬ.写真が好きな人は撮影装置に愛着をもち、被写体にも思いを寄せる.現像した写真を額縁に入れて満悦するのは無駄だろうか.骨董品だって人によっては遺物でしかないが、それが考古学的に芸術的に価値があろうとなかろうと最終的に価値を決めるのはそれを愛するものだろう.

 したがって、私は幌付きの車でいいと思っている.北海道を一週間くらい旅したときの感想を記事にしたことがあるのでよければご覧になっていただければと思う.

 私は以上のことを考えながら帰路に就いた.雨の日は、こんなことばかり考えながら運転している.いつの間にか雨はやんで、私は家の前の玄関にいた.その日の夕飯は何だったろうか.唐揚げだったかな.