生き延びるための精神病理学

精神病理学を主体に綴る人文学系のブログです

Συμπόσιον / Symposium 1

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: pexels-photo-1616113.jpeg
Photo by Tae Fuller on Pexels.com
 

 やっと「饗宴」を読み終えることができた.「饗宴」(Symposium)というのは勿論Plato(プラトン)の著作のことなのだが、この和訳は様々な出版社から出ている.私は過去に東大出版会から出た山本巍氏の「饗宴」を購入したことがあって、よし、読むぞ.と意気揚々と読み始めるとPhaedorus(パイドロス)、Pausanias(パウサニアス)、Eryximachus(エリュクシマコス)ら(誰だ君等は!?)の話がなんだか、空を掴むような、お麩を生でかじっているような感じになってしまい、エロス(Eros)賛美の話の深奥まで辿り着かなかったのである.お麩は生でかじったことがないので、今の例えはフィクションだ.

 しかし、こんな重要な著作を読まずにJ. LacanのSéminaire(セミネール)を理解できないであろうと密かに思っている私は、なんとかして読破したいと数年願っていたのだった.どうやら「転移」の章にはPlatoの「饗宴」が大いに関わっているようなのだ.「転移」というのは精神医学や心理学で知られる現象の一つだとだけ述べておく.というのは私にはその現象について語るに十分な知識を持ち合わせていないからだ.大変申し訳ないと思う.

 なぜ「饗宴」も「セミネール」も読んでないくせにそんなことを知っているんだと言われれば、人から聞いたからであると答えるしかない.私はかつてとある場所でこうした古典の抄読会に参加していたことがあった.私はその場でも何もしらない愚か者同然であって、いつも気まずい思いをしていたのだが、そこでG. Hegelに出会い、E. Husserlに出会った.J. Lacanにも当然出会ってしまった.S. Freudもそこにいた.あらゆる先人が次から次へと現れては私にとってはまじないのような言葉をつぶやいては消えてゆく.ドイツ語やフランス語で展開されるのだから堪ったものではない.参加者は皆原書を持っていて、極めて熱心にそれを読んでは「これは本当にいいねぇ」とニヤリとする.気持ち悪い光景ではあったが、同時に憧れを持ってしまった.高度なオタク同士が共通の言語を用いて、秘密の談合をしているような感じがした.以下のような調子だ.

 「ぼかァネ、彼の "Das an und fürsichseiende Wesen aber, welches sich zugleich als Bewußtsein wirklich und sich selbst vorstellt, ist der Geist."ってところが実に明快でネ、いやァこれは大変なことですよ」(訳:自分自身を「意識」として現実的なものとみなすと同時に、自分自身としてもみなす、このような「即かつ対自的な本質が」「精神」なのだ

 本当に大変なことだった.普段はむっつりしている人々が、なんだかこっそりエロ本を持ち寄って究極に気持ち悪い猥談をしているといったら言いすぎかもしれないが、私からすれば、憧れと尊敬を通り越して悔しさと苛立ちも隠せない状態であった.気持ちを抑えて、とかく私は外国語の勉強を再開し、「エロ本」集めに邁進したのであった.その本の一つが、「饗宴」であった.

 「饗宴」は、ほぼおっさんたちによるエロス(Eros)を讃える飲み会の様子を伝聞形式で描いた紀元前4世紀の作品で、高い文学的価値を持ちつつ哲学的内容が充実した傑作とされる.私は光文社古典新訳文庫から出された中澤務訳を入手し、ようやく読み終えることができた.大変にわかりやすい訳で、おっさんが生き生きと演説をする様子がわかってしまった.十分な解説がついており、これがなければ私は少年愛について誤った理解をしてしまうところだったし、プラトニック・ラブが誤解されて一般に使われていることを知り、Alcibiades(アルキビアデス)のSocrates(ソクラテス)への複雑な感情をわからずに「なんだこの乱痴気な奴は!」と勝手に憤って紙面に爪を立てていたかもしれない.

 一応、私からも「饗宴」のあらすじをお伝えしようと思う.

 ある日、Apollodorus(アポロドロス)とその友人は二人夜道を歩いていると、人から声をかけられ、Apollodorusに、昔Agathon(アガトン)という悲劇作家が悲劇コンクールで優勝した祝勝会を自宅で催したときの話をしてほしいと頼まれる.ApollodorusはAristodemus(アリストデモス)という祝宴に参加したおっさんから聞いた話を話して聞かせるのであった.

 AristodemusはSocratesの弟子で、二人で若い新人作家であるAgathonの家へ向かっていた.Agathonは悲劇コンクールを受賞したばかりで、見知った人々で宴会を行う運びになっていた.なんやかんやでAgathonの家に着く.実は皆は連日宴会続きでかなりグロッキー状態であった.「酒はもうやめにして、何か別のことをやろう、そうだ、『エロス』をみんなで順番に讃えていこうぜ」、とEryximachusという三十路過ぎたお医者さんが提案する.皆快諾.参加者が一人ずつ『エロス』について語り、ついに会場は耽美な領域へと突入する……

 

 先手は若手のPhaedorus.「エロスは最も古い神で、大変尊いんだぜぇ……」という内容で話始めるのだが、どうも面白くない.教科書的で、背伸びした感覚を受ける.彼は弁論を学んでいるルーキーらしく、盛んに引用をして権威付けをはかるのだが、「あの○○先生も大絶賛!!」といった広告の宣伝みたいで「うーん.どうもありがとう、お疲れ様.もう帰っていいよ」といった感じになる.

 次鋒Pausanias.エロスには二種類あるのだ.と述べ、<天のエロス>と<俗のエロス>に分け、二項対立を以て議論を行う.この二つのエロスは人間の恋愛に大きな影響を与えているとし、美しい愛し方と美しくない愛し方に分かれるという.ほぉ.男性が女性を愛するのは、心ではなくて身体を愛しているから(肉欲)で、それは美しくない愛し方なのだという.美しい愛し方というのは同性愛なのだ.男性を愛するという事自体が美しいんだぜ.と主張する.

 「へぇ、そういう意見もあるんだね……Pausaniasはそういう考えなんだね……」どうやら彼は、現代でもほぼ同義の同性愛者であったようで、彼の主張は自身の嗜好を弁護するようなものだった.なぜこのような主張になったのかは後述する.

 次に演説するのはAristophanesのはずだったが、しゃっくりが止まらないという理由でEryximachusに譲る.彼は医師という立場でエロスの説明を試みる.Pausaniasの主張を一部取り入れ、エロスは二種類に分かれるという.ただ、それらは健康なエロスと病的なエロスに分かれる.医術というのは何が美しいエロスで、なにが悪い病気のエロスなのかを見分けることができることだという.身体の優れた健康な部分に従って、そのような方向へ仕向けることが治療なのだともいう.優れた臨床医は身体の中の互いに敵対するものを親和的なものに変化させないといけない、調和を目指すことが必要だと説く.エロスの解釈はさらに広がり世界の調和と不調和を二つのエロスが支配し、調和へ向かって人間の生活に大きな影響を与えているという.うーん.

 ここまで来て、「エロスって結局なんだよぉ」と私は大いに落胆した.最初に買った山本訳を途中で諦めてしまったのは、Phaedorus、Pausanias、Eryximachusの演説を読んでわけがわからなくなったからである.「エロス」ってこんなに多義的なのかと思い、これらが理解できない自分は、もしかすると今後もついていけないのかもしれないと恐ろしくなった.どうもEryximachusは話を大きく広げた感じが否めない.自分の専門領域に話を落とし込んで話をするのは誰でもそうだが、結局「エロス」の話をしていないのではという印象を受けてしまう.こういうお医者さんは現代でも沢山いる.「エロス」は情愛における強い欲動をさすのではないかと、そういう議論の終着を予想した私は狼狽した.

 実はここまでの展開はPlatoの思うつぼで、ここから読者を引き込んでいくのだったことに私は長く気づくことはなかった.もしPhaedorusやPausaniasの話も面白いと思った方がいれば、それはそれで大変結構なことだと思う.

 次にAristophanesの話に移る.実際の彼は保守的な男で、Agathonを揶揄し、Socratesを若者を堕落させた男と評しておりなかなか辛辣だそうだが、ここではPlatoは愉快な男として描き出している.彼の話は結構ぶっ飛んでいるので、結構面白い.妙な説得力と面白さから彼の話は本作で最も知られているそうだ.彼は神話を語り始める.太古の昔、人は現在の人間が二人くっついたものを一人とした球体の生き物だったという.くるくる転がって動いていたそうな.二体の組み合わせで、男、女、アンドロギュノス(両性具有)という3つの性に分かれていた.古代人は力が強く尊大であることから神々に反逆しゼウスの怒りを買う.ゼウスによって古代人は身体を二つに割かれ、現在の人間の姿にしてしまう.人間は二人抱き合ってなんとか戻ろうとするがもとに戻らず次々に死んでゆく.よくこういう話を思いついたものだ.ゼウスは人々が死んでしまうのは困るので、生殖器を移して性交渉ができるように一計を案じ、子孫が残せるようにしたという.この神話から、人間が本来の片割れを探し求め、それと一体化したいという欲動のことをエロスと呼ぶのだという.

 なんだかすごいけれど、どういうことなのだろうか.これって神話でしょう?EryximachusがPausaniusの話を受けたように、AristophanesもEryximachusの話を受けて説明を続ける.それぞれの説法は独立しているように見えて実は受け継いでいるのであった.詳しくはぜひ本編を読んでいただきたい.Eryximachusはエロスが世界の調和を担うという自然的な役割を試みた.Aristophanesは彼の演説を一部引き継いで、エロスが自然的あり方であることを認めつつ、世界の調和を図る動きではなく、個々の人々に内在する動きであると主張した.

愛する人と一緒になって一つに溶け合い、一つの存在になるのだ.これこそが俺たち人間の太古の姿であり、人間は一つの全体で会ったのだから.そしてこの全体への欲求と追求を表す言葉がエロスだ!」

 彼の主張の要点は「エロスの本質は欠如にあり」というところであり、後の論者にまた受け継がれる内容である.Aristophanesの主張では、欠けた半身を探して合体しなければ幸福になれないということになる.それはジグソーパズルの欠けたピースを探すように特定の半身を見つけるという限定された欲求とも言える.

 Agathonが演説を始める.彼はエロスの本性を説明し始める.第一にエロスは神々の中でひときわ美しいのだと.若く、繊細でしなやかで美しい肌をしているなどという.そしてあらゆる美徳を身に着けているともいう.なんだかPhaedorusの弁舌のような感じを覚える.今でも架空のキャラクターやアイドルグループの敬虔なファンは「推し(おし)」と称してあらゆる修辞法を使って褒め称えるのと同じかもしれない.また飾り立てて褒めちぎる論法はどうなんだろうかと思いきや、聴衆からは大受けするのであった.彼は演説に際して様々なテクニックを用い、論法の構成も整っているし、韻を踏んで音としても美しいからであった.私にはわからなかったのだが、古代ギリシア語で読むと圧巻なのだろう.

 

つづく