生き延びるための精神病理学

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Pandemic and Persona パンデミックと私のあり方

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 以下の記事は2020年7月2日に医学誌The New England Journal of Medicine Perspectiveに掲載されたものを翻訳したものです.記事は無料で読めます.https://www.nejm.org/doi/full/10.1056/NEJMp2010377


パンデミックと私のあり方

マイケル W.カーン 医学博士

 誰もがCovid-19のパンデミックとどう向き合っていくか模索していた一方で、私はとある不安げな患者につい最近こんなことを言ったのを思い出した.

「インターネットで『ニューハンプシャー レイクトラウト 記録』で調べてみてはどうでしょうね」

 彼は釣りが好きだった.それで私は先日の新聞記事を思い出したのだった.ちょうど例の感染症が広がる前のころ、にこにこと笑みを浮かべた釣人が誇らしげに超巨大な魚を抱えている記事だった.私は彼がさらっとこの話を流すだろうことはわかっていた.私の言ったことが彼にとって、不吉でもなんでもないのに未だ気になったり、意味深に思われるかもしれない.もしかすれば気晴らしになったか、なんだか落ち着いたかもしれない.釣りに関心のある人なら誰にでも言ったであろうことだった.しかし、医師が患者に言うこととしてそれで良いのだろうか、私のプロ意識は保てるのだろうか.

 精神科医としてのキャリアが40年を迎えるころ、私はコロナウィルスが広がる以前から、私のプロとしてのありよう、つまり患者への姿勢と作法といったものが、徐々に私個人のものへと一層発展してきた.専門的な力量に関する不確かさと疑念が時を経て、より自信と専門性ともよばれるものへ変わってきた.私は患者たちにより自発的に振る舞うことで私はさらに自由になっていくのを感じた.より「ありのままの自分自身のように」、という感じだった.私はある限られた個人の細かなこと、例えば旅行はどこへ行くのか、観たことのある映画などを共有することが心地よくなっている.それと、ユーモアを用いて外部からの調整役と対話の潤滑油を担う心構えがさらにできていると思う.

 こうした緩い関係は私と患者の境界をどっちつかずにするわけではない.当たり前だが、私は個人的な問題を患者に共有することはないし、公にすることもない.例を述べると、家の修理や調べ物について患者の助言を強く頼むこともない.しかしプロとしての私と普段の私の違いというのはなくなってきている.私は一人の温かい専門家であると同時に一人の人間なのだという感じがしている.そういった結びつきこそが、より確かで私を元気づけるのと同様に、しばし患者にとって治療的であるように思われるのだ.

 そしてパンデミックは訪れた.サミュエル・ジョンソン氏の言葉1を言い換えれば、これからウィルスが押し寄せてくるという見通しがあるとなると私の思考は見事研ぎ澄まされた.臨床的な優先事項がより明確になって、実際、パソコンでの遠隔医療面接するという数週間の経験が、そうでもなければ理解にかなり時間を要したであろう、プロであるがゆえのフットワークの軽さが、どれだけ危険であるか、共有されたかがわかったのだ.私は時折、いかほど患者が家族や友人の情緒的かつ身体的な健康について取り合っているか訊くだけでなく、それらについて探りを入れることで面会を始めることがある.次に患者が私が元気か、家族の様子はどうだとか尋ねてくると、私はおおよそ隠さず話すようにしている.私は患者がいくらか体を動かしているのかどうかや、いかに独りぼっちな気持ちを抱えているかを尋ねている.患者の中には日々のルーチンはそれほど変わっておらず、人との距離を取ることはかえって棚ぼたのように思うものもいる.

 私は皆が日々をどのように過ごしているか訊くのが好きだ.ある患者は読んでいる本をパソコン内蔵カメラに映るように抱えていたので私にはその背表紙が見えたことがあった.オンライン面接の間、患者の猫が画面の中に突然飛び出してきて、いかに動物が患者の健康にとってかけがえないものであるかを彼女の顔から読み取れたこともある.私は患者の住まいをビデオツアーすることで思った以上に暮らしぶりが落ち着いていることを知り安心したのであった.時々私はZoom2上の精神科医というより地元のお医者さんのような気持ちになる.

 私はまた、動画面接の締めをしようとするとき、思いがけず小さく手を振ってさよならを伝えようとしていることに気づいた.それは少なくとも悪いことではないように感じている.遠隔医療の身体的な近接感の無さがこうした型破りと新鮮味を生み出し、医師患者関係のぎこちなさをほぐしていくのだろう.医師と患者は歴史を紡ぐ体験を共有している.塹壕の中に無神論者はいない3と言われているように、この大惨事と無縁な人はほとんどいない.

 この危機はそれゆえ一つの機会をもたらす.ウィルスに対する我々の同じ脆さのおかげで、医師にとってそうでなければ何年もかかるであろう事実がすぐに認識できるのだ.事実とはすなわち我々は患者とどこも違うところはなくて、病気でない人とごく自然に付き合うように、そうすることが彼らにとって大変嬉しいことであって、我々を気楽にしてくれるということだ.医師というのはしばしばある種の仰々しい役を演じる職業意識と、そういった態度から逸脱して過度な気さくさや、対人の線引に関する問題が生まれるのではないかと懸念する.これらは考えなければならない現実の問題である(しかし臨床での結びつきを犠牲にすることなく考えなければならない).伝統的な医学の作法や態度というのは確かに学ぶ必要がある.しかし、ジャズの偉人、チャーリー・パーカー4が即興の秘訣とはコード変更を学ぶことであり、忘れることでもあるというのを私は思い出す.私は上手く患者と馴染む一つの方法は医学の職業意識についての標準的な教育を受けることと、それをまさに忘れるのでなく、自分自身の中に溶け込ませ反芻することなのだと思う.

 話はまとまらなかったかもしれないが、私は、パンデミックの行方が、多く謎に包まれ(心の奥底では楽観視できる)中で、皆が『医者らしく振る舞うこと』が型にはまった態度を意味するものではなくて、より心に根ざしたものを理想的には意味するのだとより広く気づくやもしれないと考えている.


 ボストンのハーバード・メディカルスクールおよびベス・イスラエル・ディコネス・メディカルセンターより.

 この記事は2020年5月6日にNEJM.orgに出版されたものです.


訳注:

1: “Depend upon it, sir, when a man knows he is to be hanged in a fortnight, it concentrates his mind wonderfully.” Life of Johnson, Vol. 3, 1776-1780

 「閣下、状況次第です.これから絞首刑になると知れば人は皆見事に思考を研ぎ澄ますものです」(筆者の拙訳).Samuel Johnson (1709-1784) は英国の文筆家.文壇の大御所と言われる.上記の文章をもじったもの.絞首刑をコロナウィルスの猛威に言い換えている.

2: Zoom Video Communications, Inc. が提供するウェブ会議サービスのこと.コロナ禍によってビデオ会議が急速に普及した.

3: "There are no atheists in foxholes." 「塹壕の中に無神論者はいない」極度の緊張を強いられる場面では誰しも神頼みをする、よって無神論者はいないという格言.出典は不明.

4: Charlie Parker Jr. (1920-1955)は米国の名ジャズプレイヤー.モダンジャズ創始者と言われる.


感想:

 翻訳は実に難しい.日英は主述の形が異なるので、どのように配置するのかは苦心した.原文を読んでいただければわかるが、かなりの超訳(迷訳か誤訳)がある.遠慮なくご指摘いただきたいと思う.一方で、大変勉強になった.私の尊敬する先達が言っていたことが身にしみる.例えば、sportsmanを調べると、運動選手を意味すると思いがちだが、それでは本文で全く意味が通らない.アウトドアを楽しむ人、釣り人のような意味もあると知って、sportの多義性には恐れ入った次第だ.また、Personaの訳は人格といった言葉をよく使うが、語義の解釈を吟味して、かなり訳を柔軟にした.

 この医師は実に気さくな先生なのだろう.かといって本文にもある通り、公私混同をしていない.彼はコロナ禍によって、柔軟な面接をするように意識したと言っているようだが、きっと前から従来の医師の型にはまらないような臨床をおそらく長く続けてきたに違いない.私は精神科における遠隔医療は部分的に有益があると思う.しかし、ビデオ通話だと面接の場の雰囲気が失われる気がするのだ.診察室で繰り広げられる緊張感やある種の張り詰めた空気感というのは臨床での極めて重要な要素だと考える.しかし、カーン医師はかえって患者の日常の一コマが切り取られ画面に映し出されることでより自然な関係性を見い出せると考えているようだ.これは確かにさもありなんである.

 日本における潜在的な需要は極めて多いだろう.精神科医療資源の少ない地域、離島在住、引きこもりや、DVなどの事情により別居を余儀なくさせられている人、災害や事故によって通院ができない人も当てはまる.ただ、その需要をいかに見極めて、その中でどのように必要なインフラを供給していくかが課題だろう.ビデオ会議ツールの使用にあたっては医療と企業の利益相反がないように協議する必要はあるし、面接時間や適応を十分に検討せずに遠隔医療を広げてしまうと、かえって適切な医療の分配が行われず、医療者の多大な疲労が強く懸念されかねない.

 

 今後も記事を選んで翻訳を行いたいと思っています.ご意見、ご感想いつでもお待ちしております.