生き延びるための精神病理学

精神病理学を主体に綴る人文学系のブログです

ファッション誌から普遍的道徳律を考えることもある

 少し投稿に間が空きました.梅雨が本格的で空気はジメジメしますね.菌糸にとってはうってつけの生育環境になりました.今回は私が最近読んだ本を紹介したいと思います.メンズファッション雑誌であるGQ JAPANを、私は「ほとんど自動車の記事だけ」読むようにしているのですが、およそ一月に一回程度雑誌編集長のEditor's letterと称する記事が掲載されます.これは編集長が直々に投稿する文章で、彼自身の何にも迎合しないスタイルを私は気に入っています.

 およそ去年くらいに読んだ彼の記事ですが、平和論についてでした.私が平和について考えることはほとんどありませんでしたが、「なぜ人は自殺してはいけないのか」だとか、「なぜ人を殺してはいけないのか」、「なぜ戦争をおこしてはいけないのか」といったことを時折考えることがありました.はじめに断っておきますが、私は殺人を容認していません.極めて大多数の人が(疑問の余地なく)「人を殺してはいけない」ことを是とするでしょう.かといって親や教師から「いいかい、人を殺してはいけないんだよ」と懇切丁寧に教わることはないでしょう.少なくとも私はありませんでした.「殺してはいけない」と言われましたが、其の理由は教えられませんでした.人によっては「バカでもいいから、殺しだけはしてくれるな」といった言い方をされた人はいるかもしれません.言い方はともかく、「なぜ」という問いに説得力を以て答えることは難しそうです.私はあまり応用力が効かないのでいくつも思いつきませんが、一つの回答は「殺された人の家族や仲間の気持ちが傷つくから」という感情に基づく考え方があると思います.もう一つは「法律によって罰せられるから」という答えも当然としてあるでしょう.ですが、意地悪なクソガキやひねくれ者がいたとしましょう.「人が傷つかない殺人ならいいのでは」「敵討ちならどうだ」「法律がなかったら殺していいのか」「戦争では殺しが容認されるじゃないか」「そもそもその命題は偽ではないか」と.実にいやなやつです.しかし私の頭の中には間違いなくひねくれた同居人がいます.

 人を殺してはいけないと説く人がいる一方で、殺しを容認する社会が間違いなく存在します.世界中で戦争のない日はないでしょう.爆撃された都市の灰色の瓦礫と死者の数が報道されると、べつのにぎやかな大通りで人々がプラカードをもって戦争反対と声を挙げる.現代ではよく見る光景です.この繰り返しはいつまで経っても止みそうな気配もありません.私自身はもう十分見ました.報道は(おおよそ)事実を伝えますが、「なぜ殺し合っているか」を高い次元で伝えてくれることはありません.様々な方面へある種の不信感を感じることがあります.

 そんな中、私は鈴木正文編集長の2019年8月24日掲載の記事「カントは時計?」を目にする機会がありました.そこにはI. Kant(カント)によって1795年に著された論考である、「永遠平和のために: Zum Ewigen Frieden」について概説が記されていました.彼は光文社古典新訳から出た中山元訳を引用しており、大変おもしろく読むことができました.だいぶ彼の重複になってしまい、恐縮ですが私も訳本(岩波文庫出版、宇都宮芳明訳)を引用して、読んでみた感想を少しばかり述べてみたいと思います.

 手に取ると薄い本です.本編は一章と二章のみで、あとは本編と同じくらいの付録がついています.なんだ、結構薄いからすぐ読めちゃうじゃん、やったぜ.と思った私は愚か者です.第一章の第一条項から第六条項は次のとおりです.少し読み飛ばして頂いても構いません.

第一条項

 将来の戦争の種をひそかに保留して締結された平和条約は、決して平和条約とみなされてはならない.

 なぜなら、その場合には、それは単なる休戦であり、敵対行為の延期であって、平和ではないからである.<中略>平和条約を結ぶ当事者たちですら察知していないような、将来の戦争のための諸原因がまだ残っているとしても、これらの原因は平和条約の締結によってことごとく否定されたのである.<略>

第二条項

 独立しているいかなる国家(小国であろうと、大国であろうと、この場合問題ではない)も、継承、交換、買収、または贈与によって、他の国家がこれを取得できるということはあってはならない.

 つまり、国家は所有物ではない.国家は、国家それ自身なにものにも支配されたり、処理されたりしてはならない人間社会である.ところがそれ自身が幹として自分自身の根を持っている国家を、接ぎ木としてほかの国家に接合することは、道徳的人格である国家の存在を廃棄し、道徳的人格を物件にしてしまうことで、したがってこうした接合は、民族についてのいかなる法もそれなしには考えられないような、根源的契約の理念に矛盾する.

第三条項

 常備軍は時とともに全廃されなければならない.

 なぜなら、常備軍はいつでも武装して出撃する準備を備えていることによって、他の諸国をたえず戦争の脅威にさらしているからである.常備軍が刺戟となって、たがいに無際限な軍備の拡大を競うようになると、それに費やされる軍事費の増大で、ついには平和のほうが短期の戦争よりも一層重荷となり、この重荷を逃れるために、常備軍そのものが先制攻撃の原因となるのである.そのうえ、人を殺したり人に殺されたりするために雇われることは、人間がたんなる機械や道具として他のものの手で使用されることを含んでいると思われるが、こうした使用は、我々自身の人格における人間性の権利とおよそ調和しないであろう.だが、国民が自発的に一定期間にわたって武器使用を練習し、自分や祖国を外からの攻撃に対して防備することは、これとはまったく別の事柄である.<略>

第四条項

 国家の対外紛争に関しては、いかなる国債も発行されてはならない.

 国内経済のために国の内外に助力を求めるとしても、こうした方策は嫌疑の対象とはならない.しかし借款精度は、国家権力が互いに競い合うための道具としては、果てしなく増大し、しかもつねに当座の請求を受けないですむ安全な負債であるが<中略>これは危険な金力、つまり戦争遂行のための宝庫であって、宝庫はすべての国の財貨の総量をしのぎ、しかも税収の不足に直面しない限りは空になることもない.したがって、こうした戦争遂行の気安さは、人間の本性に生来備わっているかに見える権力者の戦争癖と結びつき、永遠平和の最大の生涯となるもので、これを禁止することは、次の理由からしても益々永遠平和の予備条項の一つに数えられる必要があろう.その理由とは、最後にはどうしても避けられない国家の破産が、負債のないほかの諸国をも一緒に損害に巻き込むことは必定で、これはこれらの国々の国家に関わる障害となろう、というのがそれである.したがってすくなくとも他の諸国はこのような国家とその僭越に対抗して、同盟を結ぶ権利がある.

第五条項

 いかなる国家も、ほかの国家の体制や統治に、暴力をもって干渉してはならない.

 なぜなら、いったい何が国家にそうした干渉の権利を与えることができるというのであろうか.一国家が他国家の臣民たちに与える騒乱の種のたぐいがそれである、というのであろうか.だが一国家に生じた騒乱は、一民族がみずからの無法によって招いた大きな厄災の実例として、むしろ他民族にとって戒めになるはずである.一般にある自由な人格が他の人格に悪い実例を示しても、それは他の人格を傷つけることにはならない.ーもっとも、一つの国家が国内の不和によって二つの部分に分裂し、それぞれが個別に独立国家を称して、全体を支配しようとする場合は、事情は別かもしれない.その際、その一方に他国が援助を与えても、これはその国の体制への干渉とみなすことはできないであろう.だが、こうした内部の争いがまだ決着していないのに、外部の力が干渉するのは、内部の病気と格闘しているだけで、他国に依存しているわけではない一民族の権利を侵害するもので、この干渉自体がその国を傷つける醜行であるし、あらゆる国家の自律をあやうくするものであろう.

第六条項

 いかなる国家も、他国との戦争において、将来の平和時における相互間の信頼を不可能にしてしまうような行為をしてはならない.例えば、暗殺者や毒殺者を雇ったり、降伏条約を破ったり、敵国内での裏切りをそそのかしたりすることが、これに当たる.

 これらの行為は、卑劣な戦略である.なぜなら、戦争のさなかでも的の志操に対するなんらかの信頼がなお残っているはずで、そうでなければ、平和を締結することも不可能であろうし、敵対行為は殲滅戦に至るであろう.ところで戦争は、自然状態において、暴力によって自分の正義を主張するといった、悲しむべき非常手段に過ぎない.またこの状態においては、両国のいずれも不正な的と宣告されることはありえないし、どちらの側が正義であるかを決定するのは、戦争の結果でしかない.だがまた、国家の間には、いかなる懲罰戦争も考えられない.以上の理由から、次のことが帰結する.すなわち、殲滅戦では、双方が同時に滅亡し、それとともにあらゆる正義も滅亡するから、永遠平和は人類の巨大な墓地の上のみにのみ築かれることになろう、ということである.それゆえ、このような戦争は、したがってまたそうした戦争に導く手段の使用は、絶対に禁止されなければならない.<中略>かの悪逆なたくらみは、それ自体が卑劣なものであるから、それが用いられると、他人の無節操だけが利用されるようなスパイの使用とは違って、もはや戦争の継続期間内に限定されず、平和状態のうちに持ち越され、その結果、平和実現の意図をまったく破壊することになろう、というのがその理由である.

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 以上が第一章の条項すべてになります.第二章には国際連盟国際連合の指導理念に影響を与える連合制度に言及がありますが、今回は触れないで起きます.文章の引用が多くなってしまいましたが、本著の中核となる文章はこれのみであると考えると、極めて簡潔と考えてもよいと思います.この論考が出された1795年はフランス革命戦争の真っ只中で、プロイセンと革命政府との間で結ばれたバーゼルの和約が結ばれた年でした.この条約は第一条項で危惧された、休戦を前提とした仮初の条約であり(結局十年後には再戦した)、到底平和にほど遠い条約に対するKantの強い不信があったようです.こうして条項を見ると、200年以上前にこのようなことを真剣に考える人がいたという感動を覚えました.おそらくもっと前にもいたのでしょうが、私の不甲斐なさでお伝えすることはできません.この中で私の目を特に引いたのは第六条項で、背信、裏切りをしてはならない理由が鋭く、明確に述べられています.これらが認められると、ゆくゆくはお互いが滅びあうまで殺し合うこととなり、平和を達成するには絶滅するしかない、平和のための武力が容認されてしまいます.これは「人を殺してはいけない」という命題にも同じことが言えるでしょう.もし万が一人を殺してもよいことになったとしましょう.貴方は昔から恨みのある人物がいて、あいつをついに殺せるぞ!と意気揚々と何らかの方法で血祭りに上げたとします.しかしその人物は地元では名の知れた有力者で、支持者が復讐のために貴方に襲いかかってきてしまう.よもや殺されると思ったその時、素性の知らない誰かが興味本位で貴方と復讐にきた人々ともども殺しに来る.復讐者は死んでしまうが、貴方は幸い生き延びる.どこかに逃げようと思ったその時、街中で次々と火事が起こり、自分の家も燃えている.警官は職務を忘れ銃を乱射して道の前は死屍累々・・・

 もういいでしょうね.もし、殺人を正当化すると、誰しもが潜在的な殺人者となり、自身の欲求を満足すべく殺人を行うし、自分も殺害の対象となりうる.おぞましい社会が生まれる.これは万人の万人に対する闘争のような状態ともいっていいのかもしれません.第三条項にある常備軍廃止の理由について、Kantはこう言います.国家が人を殺したり人に殺されるために人間を雇うことは、人間性の権利に反すると.Kantがいう定言命法(無条件に従わなければならない命題)によれば、人間は自他の人格をつねに目的それ自体として扱うべきであって、たんなる手段として扱ってはならない、と.つまり殺人をしてはならないことは、絶対的な道徳律であり、人間を手段として用いることを強く退けています.

 こうした論説は理想に過ぎない、あくまで机上の空論だろう、実際戦争は絶えないじゃないか、殺人も身近に起きているじゃないかという批判はたしかにあるでしょう.Kantは上記のように条項に続いて、その論証を明確に上げていますが、もし平和が空論であれば、誰も従わないであろう、論証は空虚なものになると考えているようです.Kantは、決して、永遠平和はおのずから成就するものではなく、人々が完成に向かって努力し、平和の実現を義務としなければならないといいます.しかし永遠平和は自然の摂理でもあり、人間が平和を希求する方向は合目的だとして、自然が永遠平和の到来を保証するとも言います.なかなか直感的にはピンときませんね.このことはもう少し考えてみたいと思います.ただ人間が誕生して以来、闘争を繰り広げ幾多の犠牲が生じ、それらの上に我々が立っていると言っても過言ではありませんが、その途上で秩序を構成し、統治体系を形成すべく政治哲学が生まれ、人を目的として営まれる社会が作られてきたのは事実でしょう.Kantが提言したように国際連合は形成されたし、常備軍の撤廃を行った奇特な国も確かに存在しています.僅かですが、平和に至る歩みは少しずつ進んでいるようにも思います.

  ファッション誌はどうも浮世離れして好きではないですが、時々こういう記事があると、なんだかワクワクします.実はまだちゃんとこの論考を読み切れていないのが正直なところです.なんにせよ.付録のボリュームがでかすぎる.それだけ読み応えがあるのでしょうが、なんどもなんども行間を往復してよく咀嚼しないといけません.また何かあれば追記しようと思います. 

  ここまで読んでくださったこと、感謝申し上げます.