生き延びるための精神病理学

精神病理学を主体に綴る人文学系のブログです

ある言葉をめぐる思弁

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 私が仕事を初めて数年経ってから「精神」という言葉を強く考えるようになった.しかし考えるよりも優先しないといけないことが多く、以前は取り組むのが難しい課題であった.今でもとてもとても難しいことに違いないが、私自身少しましになった.改めて考えるだけのものでもあると思う.さて、少しだけ考えてみよう.建学の精神、精神論、精神的、精神病、精神と肉体.言葉は一緒なのにどれ一つ意味合いが何となく異なる.この何となくが引っかかる.人間にとって精神とは何だろうか、動物の精神という言葉はあまり聞かない.建学の精神.学校の入学式や卒業式で聞いたり額縁に飾ってある言葉だ.たとえば私の学校は質実剛健、文武両道であった.精神論.あの人はいつも精神論ばかり説く.ではあの人は肉体論ばかり言う、という用法があるだろうか.殆ど聞いたことがない.敬虔な筋肉の信奉者か.そもそも精神と肉体を対立させていいのか.昔から議論されている命題だ.精神的.この言葉は日常的によく使う.精神的にきついだとか、精神的に強い、といった使い方をする.しかし精神的な強さとはなんだろう.精神病.精神の病気というと色々あるが精神病というとおおよそ統合失調症を主とする一つの疾患群を指すだろう.とはいっても精神が病むというのはどういう状況だろうか.そもそも精神という臓器はないが、精神は人間のどこで働いているか、すなわち精神の座を探求する取り組みは有史以来行われてきた.結局は脳ということになり、大体の人が納得している.もちろん、脳が一義的に精神の機能を果たしているわけでもないことは承知しているが、大多数の人と会話するときには上記を念頭において私は言葉を選ぶ.精神は人間の生活において大きく存在するものだとも考える.建学の精神という言葉は人間が学び舎を建てるときに精神的支柱として掲げるものであろう.わざと精神的という言葉を用いたが、建学の精神という言葉を引くと、自立、知性、社会、滋養などといった単語を学是としているところが多い.どれも目に見えなくて捉えどころのないものを大切にしている、機能させているといって良さそうだ.掴み難くて難解な言葉を私はどのように理解したら良いのだろうか.

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 亀吾郎法律事務所に上記のような問い合わせが来た.当事務所はこのような相談を受けることもある.私は何冊かの書物を選んで次のような返答を行った.

 最近、私はP. Valéryの著したLa Cries de l’esprit(邦題:精神の危機)なる作品集を読んだ.彼は多くの戦争を経験し、人々が切迫した時代と混乱に飲み込まれる状況を見て危機感を抱いた.ヨーロッパは果たしてあらゆる分野における優位性を保つことができるのかと.有史から世界中で賛嘆すべき幾多の文明が栄え、また滅びた.そのような淘汰の中で最強の入力と最強の出力という物理的特性を備えた領域はヨーロッパを除いて存在しなかったと彼は序文で述べる.地球儀でも世界地図でもご覧になっていただきたいが、これは人間が住む土地の総体が描かれており、天然資源、豊穣な土地、豊かな地下資源、様々な特性が観察される.ここから彼は、「人間が住む地球の現状は、人間が居住する諸地域を対象とした一つの不平等系によって、定義することができる」という.Sid Meier’s Civilization という世界文明史ゲームをやったことがある人であれば、1ターン目で砂漠ばかりの土地や、氾濫原の広がる初期立地に嘆息することはよくある話であり、土地の不平等性には一定の納得を示していただけるだろう.荒涼とした山岳地帯よりも河川の流れる盆地のほうが文明は栄えやすかろう.かといってヨーロッパがそこまで資源豊かではないし地形的にも狭溢している.ヨーロッパが優位性を保ってきた一例についてValéryはギリシアの存在を挙げる.ギリシアによって発展を遂げた思想を例に、少しずつすべての学問が幾何学のように論理を厳密にし、即時的な敷衍可能性、徹底した夾雑物の排除を行うことを余儀なくされたとし、近代科学はそこから生まれたと指摘する.Hegelも似たようなことを述べている. 科学が発展し、その物質面の応用が進むと、どちらかというと、資本活用の刺激剤として科学は商品や貿易品と化する.学者の研究材料に過ぎなかった硝石がいつしか化学エネルギーを爆発に換えて火薬となりマスケット銃の弾丸を発射する手段となる.商品は模倣され、世界中で作られる.資源が採れる土地のほうが生産は容易い.人口が多ければその分力は富む.ヨーロッパが占めていた優位性は科学水準等の地域格差がなくなっていくごとに失われてゆく.パワーバランスが逆転しつつある.Valéryはここで拡散という物理現象を用いてさらなる説明を試みる.インクを水に垂らすとそれは一瞬色づいて忽ち消えてゆく.これが拡散である.しかし、もし水槽の中に垂らしたはずのインクが姿を現したら・・・といって物理学でありえない話をするが、この現象は人間においてはありえないことではない.我々は液体系が、自然発生的に、均質系から不均質系に移行しているのを目の当たりしているという.この逆説的なイメージこそ、私達が何千年も前から「精神」の世界における役割であると.ヨーロッパの奇妙な優位性はその「精神」によって、軽い方の秤が傾くように働かしむのであった.なかなか難しい説明であるが、別の小論、La liberté de l’esprit (精神の自由)を参照してみる.そこでは「精神」という言葉を我々の体の動きに必要な、身体機能の最適化を目指すようなものではない思想や行為を分離・発展させる可能性、あるいは欲求、あるいはエネルギーとしている.すでに私達の生命はある種の変形力、すなわち我々の体と周囲の環境が我々に課す生命維持に必要な問題を解決するための能力を持っている.これは他の動物もそうである.しかし、なぜか我々は生命維持の不可欠な欲求が満足してしまうと生命保存とは別の作業を自分に課そうと思うようになる.彼の表現を借りればこれは途方もない冒険である.彼が「精神」と呼ぶものはその冒険に瞬間的な方向づけ、行動の指針、刺激、推進力を与えると同時に行動に必要な口実、幻想のすべてを与える.口実や幻想は時代とともに変わる.この精神的な力と動物的力(生命維持の能力)はよく似ている.同じ歩行であっても、ただ歩くのと踊るのは、同じ器官、同じ神経回路の産物で、ちょうど私達の言語能力が欲求や観念を表現するのに役立つと同時に同じ言葉・形式が詩をつくるにも役立つのと同じであると.両者は同じメカニズムであるが、目的は全く異なる.生命維持か大いなる冒険か.もう少し別の簡潔な文章を引用してみる.彼のCahier (カイエ)の冒頭は、「精神とは作業である.それは運動状態でしか存在しない」から始まる.またこうも述べている.「精神は一度には一つのことしか見ることができない」「精神にはきっと然るべきメカニズムがあると私は確信している.精神のすべてがそのメカニズムに還元されるとは言わない.私が言いたいのはそうした基本的メカニズムが解明されない限り、それより先へ行こうとしても無駄ということである」Politique de l’esprit(精神の政策)からも引用しよう.おそらくこれが最も端的な表現であろう.「私の意味するところはごく単純に、一つの変換する力のことである」、「精神はまさに賢者の石、物心両面にわたる一切のものを変換させる動因である」と.そして先に述べたような叙述が続く.「精神は我々の周囲にある影響を及ぼし、我々を取り巻く環境を変化させるものであるが、其の働きは既知の自然エネルギーの作用とはかなり違ったところに求めるべきものであると.その働きは、与えられたエネルギーを対立させたり、結集させたりすることに存するものだからである.この対立あるいは結集の結果として、時間の節約ができたり、我々自身の力の節約ができたり、力や精度、自由や生命時間の増大がはかられるのである.〈中略〉かく見れば、精神とは、純粋に客観的な観察の総体をいわば象徴的に表したものの謂いである」

 

 ここで少しまとめてみたい.精神とは一つの変形力であり、作業でもある.それは動的な状態である.それは自然の営みに逆らうこともできれば収束させることが可能な推進力である.例えば文字を書くということを考えてみる.薄っぺらい物体の表面に異なる物質を一定の浸透力で染み込ませ、これを規則的に延々と続ける.これは生命維持とは関係のない動的な状態と考えられる.さらに一定の様式で平面にインクなり墨なりを染み込ませるためには、「書く」主体の意志、すなわち推進力や行動の指針、もしかすれば冒険心が必要である.この営みによって、主体の思考は収束するかもしれないし、同じ文字を認識することのできる客体すなわち読み手がいれば自然の法則に則らない思考の伝達が行われるともいえよう.考えは収束するかもしれないが、読み手がどのように刺激を受けるかによってそれはさらに他者に伝播する可能性も持つ.もし扇動的であったり挑発的であればその思想に抗おうとする別の推進力が出現することも考えられる.音楽や絵画にも同じことがいえるだろう.こうしたところで、冒頭の問に答えられただろうか.建学の精神は、学び舎を興すときに創設者たちが掲げた教育の原動力(motive)となるキーワードとでもいえばよいだろうか.精神論とは主体に与えられたエネルギーに依拠すれば艱難辛苦に耐えうることができるであろう考え方と言えそうだ.精神を病むとすれば、何かを起こすための推進力に問題のある状態を考える.動的な状態を前提とすれば、それが緩慢な状態に陥ったり静止すればいわゆるうつ状態、暴走ないし危険な冒険を選ぶのは躁状態とも考えられる.このように彼の主張を演繹すると実に明快である.

 ValéryがLa Cries de l’espritを著したのは1919年だから今から100年以上前になる.彼の著作を読んでいてあまりそういう気がしなかったせいか抵抗なく読みすすめることができた.おそらく翻訳が優れていることが大きいのだろう.まだ自分の中でうまく落とし込めていない部分はあるが、一応の読了と総括をすることで、別の著作に取り組みたいと思う.