生き延びるための精神病理学

精神病理学を主体に綴る人文学系のブログです

自動車について独り言つ

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 思ったことを書きます。

 最近のことに限らず、車を運転していると周囲の自動車のほとんどは制限速度にとらわれず走行しており、道路法規の速度制限は効力をなしていないように思う日々が続いています。

 かといって著しい速度で走行する車両はほとんどおらず道路環境に比して円滑な道路状況として機能していることが多いと思っています。

 YouTubeなどの動画サイトを観ると、コクピットにぼかしを入れて車両の評価をするものが大多数ではないでしょうか。

 徹底的に解説を試みる、と謳いつつも車速についての感想は個々人の感性と洞察の豊かさに期待するしかない、道路法規を根底とした制約を自らに課しているぎこちなさや窮屈さ、他者からの凡ゆる眼差しを無視できない緊張感を私は感じてしまいます。

 一方で、此の車は法規に則って運転しても痛快で十分だ、と評する投稿は随所で認められます。これまた投稿者の実は苦しげな心中のようにも思えてしまいます。

 並立を意味する「も」という副助詞が示すように、法規を守らない場合の想定を許す表現がある以上、公的な場で速度を超えたときの愉悦を知っているとしか思えないのです。

 では彼等が無法者なのかと言うと、瞬間的にはそうなのかもしれませんが、冒頭で述べたように、彼らは柔軟に巡航している人々のごく一部なのだと考える方が親切かつ妥当でしょう。

 先程から速度の話ばかりしていますが、車の話をするときは皆、自動車のあらゆる事象に人間の心的動揺が生じ、加速への高揚感や操舵の一体感だけでなく各人の情緒的な物語を挿入して共感を誘うことは一般的かと思いますし、私自身も大いに享受しているところです。

 そういった要素では皆雄弁になり、それぞれの修辞で自動車を語るのは印象的です(流石に排気音を「咆哮」と喩えるのは陳腐であるように思います)が、速度性能になると、息を潜めて曖昧になり、申し訳程度に0-100㎞/h所要時間に言及する方が殊更気になってしまいます。

 近年の自動車性能の向上と相関しないように思われる速度制限は、実勢速度に即したと主張する制定側の見解を考慮に入れてもどうも合点がいかないものです.