生き延びるための精神病理学

精神病理学を主体に綴る人文学系のブログです

近年の異世界系小説に見る超越と脱出:2

 

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 なぜ、浦島太郎と盧生はそれぞれ異世界に転移したのか.また、なぜ二人の物語が現在まで残っているのか.他界への憧憬はあったにせよ、二人はきっと他界で幸福や快楽を得ようとしたわけではない.一度も行ったことがないはずなのだから.

 私達は彼らの出発の理由に脱出の願望を見出す.識者の言葉を借用すれば、欣求浄土」に先行する「厭離穢土」の一貫性というようだ.「厭離穢土」(おんりえど)は此の世を厭い、地獄を恐れること.「欣求浄土」(ごんぐじょうど)は死後極楽浄土へ往くのを願うことをいう.どういうことだろうか.それには日本における共同社会の特色を確認しておこう.ムラ社会の占有する土地の境界が明瞭であること、社会的にもムラの内に住む人と外に住む人との差別が強いこと、ムラの空間が外に対して閉鎖的であることが主な特徴とされる.

 ムラ社会のような共同体は構成員の安全を(建前上は)保証するが、成員個人の自由を極度に制限し、その圧力は日常生活のあらゆる局面に及ぶことがある.個人にとっては耐え難いほどに窮屈なものである.共同体や集団の習慣が制度化され厳密に組織化されたのは17世紀以降の幕藩体制および天皇制官僚国家のもと急激な工業化過程にあった社会であったとする指摘がある.共同体は農村から会社、日本国に及ぶ.共同体の境界は明瞭で出入りは困難である.集団の統制力は厳格で、逸脱には制裁を備える.共同体の内部にいる人員は誰もが満足することはなく、ひたすら鬱憤がたまるほうが自然であろう.不満の蓄積は想像に難くない.潜在的な不満の爆発的表現は、集団的伊勢参りである「抜け参り」「お蔭参り」が挙げられるようだ.これは一時的な脱出と考える.だが脱出してどうする? 伊勢に行っても結局はトボトボ戻るほかない.祈祷してもご利益はすぐには機能しない.伊勢は理想郷でもない.アマテラスの聖地ではあるが.異世界とは違う.

 「今」ここからとにかく脱出することが重要である.欣求浄土」に先行する「厭離穢土」を私なりの言葉で言えば、

 「嗚呼、うちの職場に隕石でも落ちてきたりして壊滅的になくならないかなァ、こんなところもう嫌で嫌でしかたない.家に帰ってもどいつもこいつもギャーギャーうるせえし.休日はやることないし、クタクタだし.寝るだけで休みは潰れる.もう終わりにしてぇ(終わらないのは知ってるけど).それかいっそ消えてしまいたい、ふわっと煙みたいに……どうなってもいいからサ」

 余計わからないという指摘をいただくかもしれない.つまり、「この現実は窮屈で退屈で汚らわしい、(天国とかどうでもいいから)とにかく此の世から逃げたい」ということだ.

 この脱出願望は現状に苦しんでいる人にとってきっと共感的だ.どんな世界に脱出するかはわからないが、浦島と盧生の例からすれば、空間的に現世から可能な限り遠ければ良く、時間の流れ方も現実と異なれば良い.さてどうしようか.

もう少しつづきます

近年の異世界系小説に見る超越と脱出:1

この記事はWordpressの転載です.

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今」自分が置かれている状況がとても辛い、現状に満足していない、なんとかして抜け出したい.そんなとき私達はどうするだろうか.休暇を取る?仕事をしている人なら職場になんて言おうか.「言いづらくて……」「きっと上司に小言を言われる」「申請が面倒くさいのです」という感想を持つ人は少なくないだろう.

 「法事がありまして……」嘘がバレたらどうしようと思う人もいるだろう、取れる休みもせいぜい1日2日だ.「風邪を引いたことにしよう」医療機関を受診した証明をもらってきてくださいと言われるとうまくいかない.嘘をつくにも頭を使う.もし休暇が取れたとしても行程を考えると思うと大変だ……お金もかかるし…… そう考えている人はきっと疲れている.疲れている人は多い.

 いっそ誰も自分のことを知らないどこかに行ってしまいたい、そう夢想する人はいるだろう.私はそう考えたことがある.皆さんはどんなところに行くことを考えるだろうか.

 少し前からか、「小説家になろう」というサイトや類似したものが賑わいを見せている.自分の書いた物語をウェブ上で公開し、匿名の読者から評価を得る仕組みである.読者受けが良くて、読者が増えるとランク付けされ上位としてトップページに反映される.ますます人気が出てきて、出版社やメディア業界の目に留まると、実際に出版され、書店に並ぶようになる.ライトノベルというジャンルに位置づけられることが多いだろう.(ライトノベルの嚆矢はおそらく「ブギーポップは笑わない」).漫画化も勿論ある.こういった作品がさらに人気になるためには表紙絵や挿絵を担当するイラストレーターの技量にかかっているがここでは触れない.さらにはアニメーション化されて、地上波で放送されることも少なくない.このような例は数多くあるので、実際に書店を訪れると、そのジャンルの隆盛がよく分かる.例として作品を一例挙げる.「この素晴らしい世界に祝福を!」という作品は、近年の「小説家になろう」ブームの代表として考えてよいだろう.こうした作品は実に大多数が極めて類似した作品構成となっている.それは異世界である.

 「異世界」ものは日本でも古くから存在する.浦島太郎が登場する浦島伝説が有名である.ご存知の通り、浦島太郎は善良な若い漁夫である.日常世界では格別の楽しみはない.亀を助けたことにより龍宮城へ連れて行かれ乙姫らのもてなしを受ける.憂いのない饗宴が続き、浦島太郎は容易に老いることがない.享楽して帰郷しようとする彼は玉手箱を受けとるが「開けてはならない」と乙姫から告げられる.漁村に戻った浦島太郎が、龍宮情報を知ることになるのは玉手箱を開けてからのことだった.

 中国から伝えられ、日本でも能曲として残る邯鄲夢の枕の例も他界に往来する話である.邯鄲伝説の主人公は蜀の貧しい青年、盧生である.旅の宿で貧困を歎く.出典により異なるが、宿の主人または居合わせた道士から枕を借りて、昼寝をする.夢の世界が他界である.夢の世界の広がりは中国の中心.夢の世界の盧生は忽ち王となって中原を支配し、栄華を極めた一生を送る.

 漁村と龍宮を隔つ空間はとてつもなく大きく、亀に乗ってのみ到達できる.そして龍宮で流れる時間は漁村よりもはるかに遅くまわる.邯鄲の夢の世界と現実は夢見ることでしか辿り着けない。龍宮と違って夢の世界は現実よりもはるかに速く時間が進む。異世界では時空間が現実と大きく乖離する。こうした異界へ転移する話は世界で認められ興味深いテーマであるが、今回は日本人における異界転移に共通する構造について考察をするので、ここでは言及を控える.

 

つづきます.

亀吾郎法律事務所が目指すところ What our office aims for

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About a month has passed since we founded Kamegoro law office.
Posting articles continuously makes us realise that we could gradually see things we aimed for.


Now we would like to reconsider our weblog statement.

Our mottos are set out as follows.

 

Firstly, To make the blog as lucid, peaceful and cozy place for anyone who visit.
The site should be joyful, healthy and humorous.

 

Secondly, with a humble mind, to correctly understand Psychiatry and Psychopathology as a medical profession. In order to achieve this object, I will widely cultivate my knowledge for Humanities and Natural science.

 

And I will earnestly exert myself to master not only English but other languages such as French, German and Arabic.

Thirdly, to cherish my family.

 

Should you need the detail of second statement, I, (Goro) have to say that I’ve believed the intense possibility of the study of Psychopathology.

For understanding its essence and position, I think that it is not sufficient to learn only Natural science but necessary to study the time flow started from Phenomenology proposed by E. Husserl, to K. Jaspers who dedicated his passion to Descriptive Psychiatry.

Moreover, clear understanding is required for the academic stream continues to present, and knowing how the criticisms occurred.

We elaborately set an ultimate goal to learn the thoughts of J. Lacan, who is still influential on present Psychoanalysis, originated by S. Freud. Then I solemnly and humbly wish to translate their wisdoms to non-professional people. 

 

 亀吾郎法律事務所を開設して1ヶ月になりました.

 ある程度勢いに任せて記事を投稿すると、少しずつ自分の目指すところが見えてきたような感じがします.ここでブログの方向性を確認したいと思っています.

 内容は以下の通りです.  

 

 一つは、このブログを誰にとってもわかりやすく心安らぐ場所とすること.

楽しく健康的にユーモアを尊重した場であること. 

二つは、医師として謙虚に精神医学・精神病理学を正しく理解すること.

そのために自然科学・人文科学の知識を十分に得ること.英語のみならず仏語、独語、亜語の勉強を真摯に行います. 

 

三つは、家族を愛すること.  

 

 特に二番目について詳しく述べると、私、吾郎は精神病理学という学問の強い可能性を感じてきました.その学問を理解し、学問が置かれている立場を知るためには自然科学を学ぶだけでなく、E. Husserlフッサール)の唱える現象学からK. Jaspers(ヤスパース)の記述精神医学、そして現在に至る流れと為される批判を理解する必要があると思っています.S. Freudフロイト)に始まる精神分析学の系譜を辿り、現在も多大な影響力をもつJ. Lacan(ラカン)の思想を理解することを大々的に究極的な目標として掲げています.そして願わくば、専門としない方々に控えめに思いを伝えたいと思っています.

自分で問題を提起するシリーズ:破

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 前回、時間について自分なりに問題を提起した.時間が過去から未来へ直線的に進むモデルは説得的だが、果たして正しいのだろうか.ということを述べた.これは結構難しい問題であることは自身で自覚していて、問題提起した自分を少しながら後悔しているところもある.涙を流し、挫けながら話を進めていくことにする.

  現在の物理学の最先端に、ループ量子重力理論という学説が生じているそうだ.その理論の研究者の一人、Rovelliの著書である”L’ordine del tempo”, (邦題:時間は存在しない)を偶々読む機会があった.私はループ量子重力理論ならびにその方程式を説明する立場でもなければ力量もない.数式を見たところで、大学受験の苦い記憶が蘇るだけだ.一応、本書の説明を借りるとRovelliらは時空がスピンネットワークと呼ばれる網の相互作用によって生じると考えている.申し訳ないが何を言っているのかわからない.宇宙の記述には時間の変数を必要としないという.だから「時間は存在しない」という邦題がついているのかもしれない.それでもよくわからないが.本書でスピンネットワークについての説明は深堀りされない(深堀りしないでほしい).極めて高度な方程式の話をしてもほぼすべての読者を放心させてしまうし、本書は売れないと思う.幸いにして本編には、

⊿S≧0

だけが記される.これは熱力学第二法則、熱は熱いものから冷たいものにしか移らず、その逆はない.という事実を述べている.当初は熱の不可逆性を示す式であったが、後の物理学者であるボルツマンによって、これは分子や原子の乱雑さを表す尺度であることがわかった.Sはエントロピーという重要な科学の量を表し、⊿はSの変化量を示す.そして唯一、過去と未来を認識している式だという.原始の宇宙のエントロピーが低い、すなわち秩序だっている状態からビックバンにより徐々に拡散し膨張してゆく乱雑な宇宙の姿を過去と未来に対比させれば、その式の言わんとすることは何となくわかる.しかしなぜ、過去の宇宙はエントロピーが低いのかという疑問が生じる.

 著者の答えを簡単にいうならば「偶々」だそうだ.根本のレベルにおけるこの世界は、時間に順序付けられていない出来事の集まりだという.えっ.それらの出来事は物理的な変数同士の関係を実現しており、これらの変数は元来同じレベルにある.世界のそれぞれの部分は変数全体のごく一部と相互に作用していて、それらの変数の値が「その部分系との関係におけるこの世界の状態」を定める.ということは、宇宙には無数の変数があって、それらが影響しあっているということ?何か決まった変数の値によって、世界の状態が決まるということか.うーん.

 著者はトランプカードで宇宙の特殊性と「偶々」感を説明していた.自分なりに考えてみよう.高校時代の昼休みよくやった大富豪(大貧民)を例に取る.山札からカードが配られて自分の手札に「2」や「ジョーカー」があると嬉しくなったものだ.同じ番号の手札があるのもいい.これは一つの「偶々」であろう.「日本国A県B市C高等学校1年3組の昼休みの教室で繰り広げられる5人程度の大富豪」という小宇宙では有力な手札であったが、これが友人の気まぐれで革命が起きてしまうと、「2」や「A」は戦力を失う.友人という変数によって宇宙の秩序が変わるわけだ.他の友人がさらに革命返しをすればさらに宇宙の秩序は変わる.友人の出身はA県の近隣なのだが、もしこれが日本全国から集う全寮制高校だとすると、その宇宙で繰り広げられる大富豪という系はもう少しややこしくなるだろう.ご当地ルールというのが少なからず存在する.別の言い方でローカルルールだ.「8切り」「スペ3返し」はよく知られていると思うが、「11バック」なども存在するときもある.カードの色柄を強制する「しばり」が適用されればさらに宇宙の秩序は異なってゆく.これも参加者という変数によって宇宙の成り立ちは異なる.無論、参加者の技量という変数もあるだろう.いい手札なのにプレイヤーがぼんくらならば、捨札に収束する手札の順序はまた異なる.(これは新たな山札として未来に繰り広げられる別宇宙の運命を示唆する)もし友人が飽きてしまって、ブラックジャックがしたい、ポーカーをやろう、最後は7並べしようぜ.ということになれば、同じ手札でもカードのもつ意味は大きく変わる.学校の先生という別宇宙の観測者の存在がいたとすれば、「ま〜たあいつらなんかやってるな」というつぶやきが生じることも考えられる.「日本国A県B市C高等学校1年3組の昼休みの教室で繰り広げられる5人程度の大富豪」という広大な宇宙が「なんか」で片付けられてしまうのは、宇宙を眺める立場によってこそ異なる.大富豪を始めたのは「偶々」なのに.

 微粒子レベルでは存在しない不可逆なエントロピーの増大が、我々の知覚する巨視的な世界では生じるという.我々の知覚する世界は曖昧なかたちで記述されるからこそエントロピーが存在するのだと.(生徒からすれば大富豪という新たな宇宙を創造する営みをしているが、学校の先生は生徒がカードゲームでざわついてるという粗い見方をする)私達のものの見方が粗視化(ぼやけ)と深く結びついているために熱という概念やエントロピーという概念、過去のエントロピーのほうが低いという考え方をしてしまう.自然を近似的、統計的に記述したときにはじめて生じるものなのだという.

 どうもピンと来ない.私は、本に記されている通り、説明を試みようとしているのだが、目を凝らして空を掴むような気持ちだ.過去と未来が違うのは、世界を見る我々の見方が曖昧だからだという.そんなことでいいのか.私の例えは正しいのだろうか.曖昧とはなんだろうか.私たちが経験するこの時間経過は、実は自分が世界を詳細に把握することができないからだという事実だというが……

 なんだか、別にうまくもなんともない食べ物を、無理やり「うまいでしょ!」と言われて、必死に咀嚼している感じだ.しかし開き直ったら良い.わからないと.そこが重要だと思う.世界的に優秀な一部の人々が唱える学説はどうやら複雑怪奇だ.私達の見る世界は曖昧だからこそ時間が流れているように感じるというが、そこをもう少し詳しく考えてみたい.世界に時間が存在しようが存在しなかろうがこのさいどうでもいい.なぜ、私達は過去から未来へ時間が流れているように感じるのか.幸いにして筆者はこの疑問に寄り添ってくれる.私はなんとかして食らいつく.

 

 

 次回でこのシリーズは最終回.ですが亀吾郎法律事務所の連載ははまだまだ続きます.弊事務所は今後、英文和訳や和文英訳での投稿も考えています.何かこういうものを訳してみてほしいということがありましたら、事務所連絡先まで気軽にお願いします.

本を整頓するということ

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“To arrange your books on the shelves properly is a difficult task. If you arrange them according to their contents you are sure to get an untidy shelf. If you arrange them according to their size and colour you get an attractive shelf, but you may lose of the books which you want.”

A. A. Milne, Not That It Matters

 亀吾郎法律事務所は様々な要請によって読むべき書物が増えてきている.となれば蔵書すべき本棚が必要であって、刻一刻とその必要性は増している.弊事務所はカツカツなのだが、思い切って良い本棚を買って新たな空間を構成するのも良いだろうと考えている.さて、こんなことを言うと捕らぬ狸の皮算用と言われてしまうのだが、本棚を買ってからどのように本を配置しようかと思いを巡らせてしまう.そんなときに思い浮かぶのは上の文章である.簡素な文章だが恒久的に発生するであろう読書人の悩ましさを現している気がする.

 私なりの訳を下記に載せておく.

 「本を本棚にきちんと整頓することは難しい仕事である.本の内容に従って整理すると、間違いなく雑然とした本棚になるだろう.本の大きさや彩色に従って並べれば見栄えのする棚にはなるだろうが、手に取りたい本を見失うかもしれない」

 本は並べ替えができるが、本棚を替えることは基本的に無理なことである.というわけで、亀吾郎法律事務所は大枚をはたいて見栄えのよい書架を購入しようと思う.届いた暁には改めてブログに投稿する予定であるから、皆さんも事務所の一員となったつもりで楽しみにしていただきたい.

 そうそう、弊事務所に新しくラグを敷いた.ベルギー製のモカレンという模様のラグで、真緑のソファと程よい対照をなしていると密かに思っている.いつかご紹介できるかもしれない.

自分で問題を提起するシリーズ:序

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 ようやく取り組んでいたG. W. F. Hegel(ヘーゲル)の歴史哲学講義を読み終えようとしている.人間の精神が自由に向かって進んでいく過程が世界の歴史である、という彼の考えはその後の歴史哲学を推し進めてゆく一つの偉大な動きだと思う.精神が自由を求めて成長する冒険譚という筋書きは私の好奇心ををくすぐる.しかし私にとっては結局精神とはなんだろうかということが気になっている.以前記事にした、P. Valéry(ヴァレリー)と精神についての拙い私見はHegel(ヘーゲル)後のものなので、彼が精神をどう捉えているかは、別の著作を読むことにしたい.

 彼の歴史観は人間が自由を求めて前進してゆく、歴史的人間中心主義である.これは「日本文化の時間と空間」(加藤周一著)にも言及されている.つまりは近代ヨーロッパの歴史意識を生んだユダヤキリスト教的な時間の捉え方をしている.天地創造から始まり、世界の終末を述べる.時間は始めと終わりがある線分、一回限りの有限の非可逆的な時間経過をたどるという.有限の時間はその全体を考え、見透かすことができる.歴史的出来事の意味は過去・未来の出来事との関係において決定される.時間は構造化され、特定の終局へ絶えず前進してゆく考えは目標へ向かう運動としての歴史という観念に結びつく.これは”Exodus”「出エジプト記」に代表されるという.イスラエル人がエジプトを出て約束の地に建国したことは、彼らが彼ら自身の自由意志で選択したことにほかならない.歴史は人間の自由な決断の結果であるとする.イスラエル人は歴史記述の関心を歴史の目標と歴史的出来事の間の関係に注いだのである.この時間概念は現在のヨーロッパ世界の下地となっていることに私は驚いたのであったが、時間の類型に関する彼の著述を読み進めていくと、さらに私の狭量さが浮かび上がる.時間の類型はいくつかの概念に分類して考えられるという.

 一つは上に述べた、有限の線分を前進する時間である.二つ目は、古代ギリシア人による円周上を無限に循環する時間、三つ目は古代中国での無限の直線を一定方向に流れる時間、第四は始めなく終わりある時間.弥勒信仰による一種の終末論が挙げられる.第五は始めあり終わりない時間で、唐代の中国で現れた末法思想に基づく考えである.

 どれもそれぞれの文化的背景に沿った怜悧な分析である.では実際のところ私達はどんな時間の中に生きているのだろうか.私は高校物理学でニュートン力学を学んだ.この力学はユークリッド空間で規定され、時間は過去から未来へ均一に進む.数学においても時間は均一に進行するものとして取り扱った.でなければ到底私では理解できなくなってしまう.相対性理論は知識として知っている.光速は不変の速度であるから異なる慣性系では時空間が歪む.日常の物理学で光速に近い速度のものは想定しないから近似してニュートン力学を用いてよいことはおおよそ分かる.だいたい地球に住んでいる人にとっては時間の進み方は均一なのであろう.ただ時間の始原と終末については言及がない.言及がないのは当然であろう.任意の時間を考えれば問題は設定できるのだから.よほど凝った問題を作る場合を除く.しかし、始原は気になるだろう.始めが気になる人は終わりも気になるだろう.始めに関してはビッグバン(膨張宇宙説)のこと、というのはおそらく教養として広く知られていると思う.では終局はどうなのか.A. Augustinus(アウグスティヌス)に言わせれば「私は知らない」.知っている人は極めて少ないと思う.確信の水準で知っている人は何か深刻な問題を抱えている可能性がある.私にそっと教えてほしい.

 私達の暮らす世界の時間がどのようなものかよくわからない以上、歴史の記述もそれが本当に正しいのか、ちょっと怪しくなってくる.いや、決してオカルト的話に帰結させたいのではなくて、私達がごく当たり前に思っているであろう、「時間は過去から未来へ直線を前進する流れ」が至極受け入れやすくて、説明も容易すぎるのである.感覚的に正しい感じはする.いい香りのするご飯は美味しいに違いないという直感と似ている.フェラーリのつくる新型V型8気筒エンジンは素晴らしい音を奏でるに決まっているという感覚でもある.薫香を黄昏に溶かす葉巻の味は格別なのかもしれない.しかし、当たり前のことを少しうがった見方で捉えてみるのが私の癖である.ただこうした疑問に取り合ってくれる人は少ない.そもそも問題提起できる場所も少ないように思う.「いいからさっさとご飯たべちゃいなさい」「そういうのいいから仕事終わった?」「でも君は〇〇卒だよねぇ、それじゃあいくら考えてもだめさ」「吾郎クン、変わってるよネ」そんなことを言われる気がしてしまう.話を戻す.では、循環する時間を考えると説明しやすいものはあるか.天体運動や四季の移ろいがある地域では説得力があるかもしれない.循環するのに円運動である必要はあるか.楕円か.富士スピードウェイのような複合する曲線か.ボロメオの輪でもいいじゃないか.歴史は繰り返すという言葉もある.栄枯盛衰、盛者必衰の理.火葬場で燃えた私の遺骨は埋葬されてから大地の微生物によって分解され、土壌を豊かにする.新たな生命の糧となる.これでは輪廻になってしまう.しかし輪廻では歴史を記述することは難しそうである.できなくはないが手塚治虫くらいである.何を言いたいのかわからない方はぜひ「火の鳥」をご覧になってほしい.兎にも角にもあらゆる事象を一元的に説明できる強い言説が必要だ.私の頭の中も駄菓子の超ひもQが絡み合ってしまうかのようにこんがらがってしまった.

 こういうときはどうするか.とりあえず寝るに限る.その後に新しい著作を読んで知識を得る.できれば議論をする.ということになりそうだ.このテーマはシリーズ化してみようと思っているので、自分なりに理解を深めてから思考を整理すべく文章に出力したい次第である.次作にご期待頂ければ幸いである.

ファッション誌から普遍的道徳律を考えることもある

 少し投稿に間が空きました.梅雨が本格的で空気はジメジメしますね.菌糸にとってはうってつけの生育環境になりました.今回は私が最近読んだ本を紹介したいと思います.メンズファッション雑誌であるGQ JAPANを、私は「ほとんど自動車の記事だけ」読むようにしているのですが、およそ一月に一回程度雑誌編集長のEditor's letterと称する記事が掲載されます.これは編集長が直々に投稿する文章で、彼自身の何にも迎合しないスタイルを私は気に入っています.

 およそ去年くらいに読んだ彼の記事ですが、平和論についてでした.私が平和について考えることはほとんどありませんでしたが、「なぜ人は自殺してはいけないのか」だとか、「なぜ人を殺してはいけないのか」、「なぜ戦争をおこしてはいけないのか」といったことを時折考えることがありました.はじめに断っておきますが、私は殺人を容認していません.極めて大多数の人が(疑問の余地なく)「人を殺してはいけない」ことを是とするでしょう.かといって親や教師から「いいかい、人を殺してはいけないんだよ」と懇切丁寧に教わることはないでしょう.少なくとも私はありませんでした.「殺してはいけない」と言われましたが、其の理由は教えられませんでした.人によっては「バカでもいいから、殺しだけはしてくれるな」といった言い方をされた人はいるかもしれません.言い方はともかく、「なぜ」という問いに説得力を以て答えることは難しそうです.私はあまり応用力が効かないのでいくつも思いつきませんが、一つの回答は「殺された人の家族や仲間の気持ちが傷つくから」という感情に基づく考え方があると思います.もう一つは「法律によって罰せられるから」という答えも当然としてあるでしょう.ですが、意地悪なクソガキやひねくれ者がいたとしましょう.「人が傷つかない殺人ならいいのでは」「敵討ちならどうだ」「法律がなかったら殺していいのか」「戦争では殺しが容認されるじゃないか」「そもそもその命題は偽ではないか」と.実にいやなやつです.しかし私の頭の中には間違いなくひねくれた同居人がいます.

 人を殺してはいけないと説く人がいる一方で、殺しを容認する社会が間違いなく存在します.世界中で戦争のない日はないでしょう.爆撃された都市の灰色の瓦礫と死者の数が報道されると、べつのにぎやかな大通りで人々がプラカードをもって戦争反対と声を挙げる.現代ではよく見る光景です.この繰り返しはいつまで経っても止みそうな気配もありません.私自身はもう十分見ました.報道は(おおよそ)事実を伝えますが、「なぜ殺し合っているか」を高い次元で伝えてくれることはありません.様々な方面へある種の不信感を感じることがあります.

 そんな中、私は鈴木正文編集長の2019年8月24日掲載の記事「カントは時計?」を目にする機会がありました.そこにはI. Kant(カント)によって1795年に著された論考である、「永遠平和のために: Zum Ewigen Frieden」について概説が記されていました.彼は光文社古典新訳から出た中山元訳を引用しており、大変おもしろく読むことができました.だいぶ彼の重複になってしまい、恐縮ですが私も訳本(岩波文庫出版、宇都宮芳明訳)を引用して、読んでみた感想を少しばかり述べてみたいと思います.

 手に取ると薄い本です.本編は一章と二章のみで、あとは本編と同じくらいの付録がついています.なんだ、結構薄いからすぐ読めちゃうじゃん、やったぜ.と思った私は愚か者です.第一章の第一条項から第六条項は次のとおりです.少し読み飛ばして頂いても構いません.

第一条項

 将来の戦争の種をひそかに保留して締結された平和条約は、決して平和条約とみなされてはならない.

 なぜなら、その場合には、それは単なる休戦であり、敵対行為の延期であって、平和ではないからである.<中略>平和条約を結ぶ当事者たちですら察知していないような、将来の戦争のための諸原因がまだ残っているとしても、これらの原因は平和条約の締結によってことごとく否定されたのである.<略>

第二条項

 独立しているいかなる国家(小国であろうと、大国であろうと、この場合問題ではない)も、継承、交換、買収、または贈与によって、他の国家がこれを取得できるということはあってはならない.

 つまり、国家は所有物ではない.国家は、国家それ自身なにものにも支配されたり、処理されたりしてはならない人間社会である.ところがそれ自身が幹として自分自身の根を持っている国家を、接ぎ木としてほかの国家に接合することは、道徳的人格である国家の存在を廃棄し、道徳的人格を物件にしてしまうことで、したがってこうした接合は、民族についてのいかなる法もそれなしには考えられないような、根源的契約の理念に矛盾する.

第三条項

 常備軍は時とともに全廃されなければならない.

 なぜなら、常備軍はいつでも武装して出撃する準備を備えていることによって、他の諸国をたえず戦争の脅威にさらしているからである.常備軍が刺戟となって、たがいに無際限な軍備の拡大を競うようになると、それに費やされる軍事費の増大で、ついには平和のほうが短期の戦争よりも一層重荷となり、この重荷を逃れるために、常備軍そのものが先制攻撃の原因となるのである.そのうえ、人を殺したり人に殺されたりするために雇われることは、人間がたんなる機械や道具として他のものの手で使用されることを含んでいると思われるが、こうした使用は、我々自身の人格における人間性の権利とおよそ調和しないであろう.だが、国民が自発的に一定期間にわたって武器使用を練習し、自分や祖国を外からの攻撃に対して防備することは、これとはまったく別の事柄である.<略>

第四条項

 国家の対外紛争に関しては、いかなる国債も発行されてはならない.

 国内経済のために国の内外に助力を求めるとしても、こうした方策は嫌疑の対象とはならない.しかし借款精度は、国家権力が互いに競い合うための道具としては、果てしなく増大し、しかもつねに当座の請求を受けないですむ安全な負債であるが<中略>これは危険な金力、つまり戦争遂行のための宝庫であって、宝庫はすべての国の財貨の総量をしのぎ、しかも税収の不足に直面しない限りは空になることもない.したがって、こうした戦争遂行の気安さは、人間の本性に生来備わっているかに見える権力者の戦争癖と結びつき、永遠平和の最大の生涯となるもので、これを禁止することは、次の理由からしても益々永遠平和の予備条項の一つに数えられる必要があろう.その理由とは、最後にはどうしても避けられない国家の破産が、負債のないほかの諸国をも一緒に損害に巻き込むことは必定で、これはこれらの国々の国家に関わる障害となろう、というのがそれである.したがってすくなくとも他の諸国はこのような国家とその僭越に対抗して、同盟を結ぶ権利がある.

第五条項

 いかなる国家も、ほかの国家の体制や統治に、暴力をもって干渉してはならない.

 なぜなら、いったい何が国家にそうした干渉の権利を与えることができるというのであろうか.一国家が他国家の臣民たちに与える騒乱の種のたぐいがそれである、というのであろうか.だが一国家に生じた騒乱は、一民族がみずからの無法によって招いた大きな厄災の実例として、むしろ他民族にとって戒めになるはずである.一般にある自由な人格が他の人格に悪い実例を示しても、それは他の人格を傷つけることにはならない.ーもっとも、一つの国家が国内の不和によって二つの部分に分裂し、それぞれが個別に独立国家を称して、全体を支配しようとする場合は、事情は別かもしれない.その際、その一方に他国が援助を与えても、これはその国の体制への干渉とみなすことはできないであろう.だが、こうした内部の争いがまだ決着していないのに、外部の力が干渉するのは、内部の病気と格闘しているだけで、他国に依存しているわけではない一民族の権利を侵害するもので、この干渉自体がその国を傷つける醜行であるし、あらゆる国家の自律をあやうくするものであろう.

第六条項

 いかなる国家も、他国との戦争において、将来の平和時における相互間の信頼を不可能にしてしまうような行為をしてはならない.例えば、暗殺者や毒殺者を雇ったり、降伏条約を破ったり、敵国内での裏切りをそそのかしたりすることが、これに当たる.

 これらの行為は、卑劣な戦略である.なぜなら、戦争のさなかでも的の志操に対するなんらかの信頼がなお残っているはずで、そうでなければ、平和を締結することも不可能であろうし、敵対行為は殲滅戦に至るであろう.ところで戦争は、自然状態において、暴力によって自分の正義を主張するといった、悲しむべき非常手段に過ぎない.またこの状態においては、両国のいずれも不正な的と宣告されることはありえないし、どちらの側が正義であるかを決定するのは、戦争の結果でしかない.だがまた、国家の間には、いかなる懲罰戦争も考えられない.以上の理由から、次のことが帰結する.すなわち、殲滅戦では、双方が同時に滅亡し、それとともにあらゆる正義も滅亡するから、永遠平和は人類の巨大な墓地の上のみにのみ築かれることになろう、ということである.それゆえ、このような戦争は、したがってまたそうした戦争に導く手段の使用は、絶対に禁止されなければならない.<中略>かの悪逆なたくらみは、それ自体が卑劣なものであるから、それが用いられると、他人の無節操だけが利用されるようなスパイの使用とは違って、もはや戦争の継続期間内に限定されず、平和状態のうちに持ち越され、その結果、平和実現の意図をまったく破壊することになろう、というのがその理由である.

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 以上が第一章の条項すべてになります.第二章には国際連盟国際連合の指導理念に影響を与える連合制度に言及がありますが、今回は触れないで起きます.文章の引用が多くなってしまいましたが、本著の中核となる文章はこれのみであると考えると、極めて簡潔と考えてもよいと思います.この論考が出された1795年はフランス革命戦争の真っ只中で、プロイセンと革命政府との間で結ばれたバーゼルの和約が結ばれた年でした.この条約は第一条項で危惧された、休戦を前提とした仮初の条約であり(結局十年後には再戦した)、到底平和にほど遠い条約に対するKantの強い不信があったようです.こうして条項を見ると、200年以上前にこのようなことを真剣に考える人がいたという感動を覚えました.おそらくもっと前にもいたのでしょうが、私の不甲斐なさでお伝えすることはできません.この中で私の目を特に引いたのは第六条項で、背信、裏切りをしてはならない理由が鋭く、明確に述べられています.これらが認められると、ゆくゆくはお互いが滅びあうまで殺し合うこととなり、平和を達成するには絶滅するしかない、平和のための武力が容認されてしまいます.これは「人を殺してはいけない」という命題にも同じことが言えるでしょう.もし万が一人を殺してもよいことになったとしましょう.貴方は昔から恨みのある人物がいて、あいつをついに殺せるぞ!と意気揚々と何らかの方法で血祭りに上げたとします.しかしその人物は地元では名の知れた有力者で、支持者が復讐のために貴方に襲いかかってきてしまう.よもや殺されると思ったその時、素性の知らない誰かが興味本位で貴方と復讐にきた人々ともども殺しに来る.復讐者は死んでしまうが、貴方は幸い生き延びる.どこかに逃げようと思ったその時、街中で次々と火事が起こり、自分の家も燃えている.警官は職務を忘れ銃を乱射して道の前は死屍累々・・・

 もういいでしょうね.もし、殺人を正当化すると、誰しもが潜在的な殺人者となり、自身の欲求を満足すべく殺人を行うし、自分も殺害の対象となりうる.おぞましい社会が生まれる.これは万人の万人に対する闘争のような状態ともいっていいのかもしれません.第三条項にある常備軍廃止の理由について、Kantはこう言います.国家が人を殺したり人に殺されるために人間を雇うことは、人間性の権利に反すると.Kantがいう定言命法(無条件に従わなければならない命題)によれば、人間は自他の人格をつねに目的それ自体として扱うべきであって、たんなる手段として扱ってはならない、と.つまり殺人をしてはならないことは、絶対的な道徳律であり、人間を手段として用いることを強く退けています.

 こうした論説は理想に過ぎない、あくまで机上の空論だろう、実際戦争は絶えないじゃないか、殺人も身近に起きているじゃないかという批判はたしかにあるでしょう.Kantは上記のように条項に続いて、その論証を明確に上げていますが、もし平和が空論であれば、誰も従わないであろう、論証は空虚なものになると考えているようです.Kantは、決して、永遠平和はおのずから成就するものではなく、人々が完成に向かって努力し、平和の実現を義務としなければならないといいます.しかし永遠平和は自然の摂理でもあり、人間が平和を希求する方向は合目的だとして、自然が永遠平和の到来を保証するとも言います.なかなか直感的にはピンときませんね.このことはもう少し考えてみたいと思います.ただ人間が誕生して以来、闘争を繰り広げ幾多の犠牲が生じ、それらの上に我々が立っていると言っても過言ではありませんが、その途上で秩序を構成し、統治体系を形成すべく政治哲学が生まれ、人を目的として営まれる社会が作られてきたのは事実でしょう.Kantが提言したように国際連合は形成されたし、常備軍の撤廃を行った奇特な国も確かに存在しています.僅かですが、平和に至る歩みは少しずつ進んでいるようにも思います.

  ファッション誌はどうも浮世離れして好きではないですが、時々こういう記事があると、なんだかワクワクします.実はまだちゃんとこの論考を読み切れていないのが正直なところです.なんにせよ.付録のボリュームがでかすぎる.それだけ読み応えがあるのでしょうが、なんどもなんども行間を往復してよく咀嚼しないといけません.また何かあれば追記しようと思います. 

  ここまで読んでくださったこと、感謝申し上げます.